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自分の一部の境界線

先日美容院で髪を切ってもらった際、床に落ちた自分の髪の毛を見て、「この髪の毛は、もう自分の身体の一部ではないのだろうか」という疑問が浮かんだ。

切られる前の髪の毛は頭皮から生えており、美容師さんに軽く引っ張られた際に痛みも感じていたことから、確実に自分の一部であったと言える。

しかし、散髪され床に落ちてしまった髪の毛を見ると、もう自分の一部という感覚は残っていなかったのだ。

一体切られた私の髪の毛は、いつから自分の一部ではなくなってしまったのだろうか。

構造的に見れば、身体から分離された瞬間に、髪の毛は自分の一部ではなくなっているように思える。しかし、髪を切られている最中に、自分が分断されているという感覚も伴っていなかったのだ。

このことから、自分と自分の一部ではないという感覚の境界は、単に身体と繋がっているかどうかということだけでは語れないように思えてきた。

自分の一部の境界線を探るため、もう少し散髪時の感覚の解像度を上げて考察してみようと思う。


私が着目したのは、自分の肩に落ちた髪に微かに残る、まだ自分のものである感だ。

散髪時に羽織っているクロスに付着した自分の髪には、辛うじて自分の一部であるような感覚が少しだけ残っていた。しかし、髪が美容院の床に落ちた瞬間に、それらはただのホコリやゴミと変わらない物質としてカテゴライズされてしまっていたのだ。(この選別をしているのは無意識の自分である)

落ちる場所で変わってくる感覚の差から、髪が自分の一部ではなくなってしまう決定的瞬間は、それをゴミとして認識せざるを得ない状況によって生まれるのではないかということに気がついた。

考えてみれば、親が大切に取っていた自分の「へその緒」を初めて見たときは、ほんの少しだけ、まだ自分の一部であるように感じられていた。

その理由は、箱の中に大切に保管されているといった状況によるものであったと思われ、もしへその緒がゴミのような扱いで保管されていたら、自分の一部という感覚とはまた違った印象を受けていたかもしれない。

これらのことから、私にとっての自分の一部の境界線は、汚いゴミや大切な記念といった概念上の認識で区分されていたことが分かった。


と、軽く思考の整理ができたこのあたりで、今週の記事は終わりにしようと思う。

ところで、今晩私が食べたオムライスは、一体いつから自分の一部になったのだろうか。

ミヤタ-------
プランナーをしながら、日々新しい気づきや固定観念が壊れる瞬間の事例を収集しています。

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