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しばらくすると、こんな生活にも慣れ美容師としての仕事も覚え楽しくなって来ていた。

そんなころ美容室に後輩が入ってきた。

秋田から東京に出てきて美容師を目指す21歳の女性でのちに結婚する事になる運命の人だ。

私は17歳のころから彼女の家に転がり込み同棲生活。4歳年上で当時の私からしたら大人の女性だ。

 

20歳で結婚。とにかく早く結婚したかった。自分が育った家庭環境が嫌で、自分は幸せな家庭、家族にあこがれていた。もちろん貧乏なんてまっぴら御免。早くお金を稼いでいい暮らしをしたかった。

 

社長になりたかった。しかし現実は、美容師の仕事は見た目よりハードで長時間労働、低賃金。お金もなく美容室出勤前に倉庫で冷凍食品の仕分け作業のアルバイトをしたり、美容室終了後に中華料理店で鍋洗いのバイトをしたり、よく働いた。

 

1986年21歳の時に長男が生まれ父親になる。

23歳で長女が生まれた半年後1988年9月吉祥寺にほど近い住宅街の居ぬき物件で鏡4面シャンプー台2台。

 

一階に小僧寿しが入った店舗の2階に美容室Fitをオープン。

年齢は若かったけれど当時7-8年のキャリアで独立するのが普通だった時代。

 

23歳の時にやっと自分の城を持つが出来た。中学生のころからの夢、社長になった瞬間だ。

 

今まで勤めたお店ではそれなりの売り上げ、指名もあり店を開けば、技術があればお客さんは来ると信じていた。よくある勘違職人の典型タイプ。若い時の勢いはだれにも止められない。

 

勤めていた頃は店の看板と集客力と長年かけて築いてきた信用、実績で自分も恩恵を受けていただけだった。それからは人並みの苦労を経験し美容室を移転拡張、美容室の他に、雑貨店、理容室、エステサロン、そして社長となってから10年後の1998年32歳の時に商品開発した世界初の真っ黒なシャンプー【元祖炭シャンプー】。

 

この開発までのストーリーも振り返ってみた。

理美容師の手荒れ問題はかなり深刻で、毎日何人ものお客さんのシャンプーやパーマ、カラーなどの薬剤以外にもお湯を使うこと、ドライヤーの熱風で手はボロボロ。

ドクターストップがかかる人もいるぐらい、指の関節のしわがパかっとひび割れ血がにじんだり、腕まで湿疹が出てくることも珍しくない。

 

見た目のきらびやかな雰囲気とは違い、美容師の手は美を提供している職業の手というにはほど遠い。

こんなこともあり、毎日たくさんのシャンプーや薬剤を使う自分たち理美容師が少しでも薬剤からの刺激の軽減が出来る、低刺激で顔も体も、髪の毛も全部洗えるシャンプーを作りたかった。

 

低刺激で洗浄力が弱くなると毛穴の汚れが取れにくい。どうしたらいいか製造会社と相談をしていた。

当時流行っていたのが炭。お水に入れて浄化しておいしくまろやかな味に。

下駄箱に入れて脱臭剤代わりに。

部屋にアート調に飾って空気浄化に。

TV,雑誌などでも頻繁に取り上げられていて、実際私の家でも様々な用途で利用していた。

 

試作品が納品されるまで待ちきれずにホームセンターに行きバーベキュー用の炭を買ってきて、美容室で使っていた業務用シャンプーにヤスリでガリガリと削って入れてみた。

シャンプーが真っ黒になるまで炭をたくさん入てみた。

 

私的には真っ黒でとてもインパクトがあり面白い!今までにない発想と、シャンプー剤のクリーム色や、透明感のあるクリアーなシャンプー剤のイメージを壊すことにもワクワクしたのを覚えている。

 

実際に真っ黒な炭入りのシャンプーで洗った後の頭皮を300倍のマイクロスコープで見てみると毛穴の汚れがきれいに取り除かれ、ぽっかりとクレーターのようになっている。

これはイケる!と直感した。

 

それからは何度も製造会社と試作品テストを繰り返し世界初の真っ黒なシャンプー【元祖炭シャンプー】ができた。

 

シャンプーの品質、髪の仕上がりは自信を持っていた。

 

安全性の実験では自らの頭を使って実証実験した。

 

当時経営していた理美容室で使用するプロ用のバリカンの一番短い長さ0.5mmで丸坊主にした。ほぼスキンヘッド状態。

ましてスキンヘッドの美容師なんか自分も見たことがない。

 

毎日炭シャンプーの原液を自らの頭皮にたっぷり塗りラップをかけて30分以上放置。

こんなことを何度も繰り返し、顔も体も髪も安全に安心して使える、そして洗浄力だけに頼らず炭の吸着力を利用した画期的でインパクトのある真っ黒な炭シャンプーが誕生した。

 

この真っ黒な炭シャンプーの誕生のおかげで、今までの人生の中で最大の転機を迎えることになる。
続く

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