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【私の職務経歴書~大学院時代~】(2003年9月~2005年9月)

私は2003年9月から2005月まで、中央大学専門職大学院国際会計研究科(CGSA、Chuo Graduate School of Accounting)に通っています。

この大学院は会計とファイナンスに特化した大学院で、日本で最初の会計専門職大学院として2002年に開校されました。

残念ながら2018年に法科大学院に融合されていますが、この大学院に通ったことが大きな転機となっています。



大学院に入学したのは反骨心から

私が大学院に入学したのは、社会人になって2年半が経過したときでした。
学部は青山学院大学を卒業し、当時は大学院に進学するという発想はなかったので就職しています。

私が新卒で入社した会社は株式会社テレウェイヴという非常に元気のいい会社です。
詳細は過去のnote「【私の職務経歴書~テレウェイヴ時代~】(2001年4月~2007年9月)」をお読み頂きたいのですが、私はそこで充実した日々を送っていました。

新卒1年目で新規事業を担当し、大きな収益を上げることができました。
2年目は、経営企画にコンバートされ、会社の上場(店頭登録)に貢献しました。
3年目は、IR担当になり、社長やCFOと共に機関投資家をまわります。

このように書くと、とても順調な社会人生活だったように聞こえます。
たしかに、2年目までは目の前の仕事をがんばり、結果も伴っていたので楽しかったのを覚えています。

ところが3年目のIR担当になり、私は厳しい世間の現実と自身の本当の実力を実感することになります。

社会人3年目でIR担当となった私の仕事は、主幹事証券と連絡をし、主幹事証券やそのIRコンサルの会社がとってくれる機関投資家を社長たちと訪問します。

もちろんメインスピーカーは社長やCSO、CFOといった取締役たちです。
私は議事メモをとったり、取締役の話を補足するデータなどを提供していました。

上場から少しすると、社長や取締役たちはIRよりも事業に注力するようになります。

これはテレウェイヴ社がスタートアップで常に業績の結果が求められるからで、取締役たちの時間は当然そちらに費やされます。

しかし、上場している以上はIRも疎かにはできません。
そこでIR担当の出番となります。

ところが取締役たちと訪問した時と、私が一人で訪問したときでは対応が変わりました。

取締役たちは会社の代表として経営戦略などを全ての説明を自分の言葉で語ります。

それに対して私は、取締役会は営業会議などには出席していましたが、あくまで運営補助のメンバーでしかありません。

一生懸命聞いて、取締役たちがする話を真似して話してみましたがあまり話を聞いてもらえません。

これは当然のことで、命の次に大切なお金を、しかもそれなりの金額のお金を投資する以上、投資家は会社のことを聞きますし将来の展望など予測するため意思決定のプロセスまで聞いてきます。

事業のこともよくわかっていないだけでなく、経営陣の物理的に近く場所で働いていたものの、取締役たちと私の立ち位置の距離は歴然としています。

それでも業績は伸びており、アポイントが入ってしまうので私は出動することになります。

どうしたら話を聞いてもらえるか悩んでいた時に、たまたま地下鉄のつり広告で「中央大学専門職大学院」の募集広告をみて私はすぐに申し込むことを決めました。

幸いお金は、当時勤務していた会社が上場したときにもらっていたストックオプションや貯金と思って満額貯めていた従業員持株会がそれなりの金額になっていたのでお金の問題はありません。

思ったら即行動。

早速 願書を取り寄せ、受験の準備を始めました。

「機関投資家に話をちゃんと聞いてもらうため」
私が大学院への入学を決めたのはそんな理由でした。
けっして志が高かったわけではなく申し訳ありません・・。


「中央大学専門職大学院」を選んだ理由

数ある大学院の中で、私が中央大学の会計専門職大学院を選んだのには4つの理由があります。

1つめの理由は、どうせ大学院で学ぶならMBA(Master of Business Administration、経営学修士)を、それも全般的に学べるゼネラリストよりも一部の分野に特化したスペシャリストのほうが自分の武器になるのではないかと思ったことです。

一般的なMBAは、マーケティングや組織論、人事関連などマネジメント全般を広く学べます。

これに対して専門職大学院は、文字通り特定の分野の専門職を育成することを目的としています。

特に会計専門職大学院は、会計の専門家を教育するための機関として注目されており、特に公認会計士については試験科目の一部を免除してもらたり、"CFO養成学校"としても期待されていました。

短所を伸ばして総合力を高めるより、他の人に負けない武器を一つだけ持っているほうが強いと思っていた私がビジネススクールではなく、専門職大学院に惹かれたのは自身の志向に合っていたからです。

2つめの理由として、実は「選択肢が中央大学しかなかった」というものです。

私が卒業している青山学院大学も2005年から会計専門職大学院を設立する動きがありました。
時は2003年の春です。
2005年まで待っていられません。

3つめの理由は、講師の先生方がアカデミックな方だけではなく、実務家の方たちも多数招聘されているということでした。

私が特に興味を持ったのは伊東敏先生と久保幸年先生でした。

伊東敏先生は、会計事務所のアーサーアンダーセンにのパートナーであり、当時の私の上司であった原紳二さんが同事務所に勤めていた際の上司ということでした。
大学院の進学を検討している際に原さんに相談したところ、伊東敏先生からなら学ぶことが多いので是非と背中を押して頂きました。

久保幸年先生は、東京証券取引所に勤め、1999年には上場審査部長をされ、マザーズ市場の設立にも尽力されたという方です。
その後、三優監査法人の代表社員などを歴任されており、IPOに少しでも関わったことがある方なら誰でも知っているような方でした。

伊東敏先生も久保幸年先生も特任教授ということで5年間の期限限定の教授であり、時期を逸すると教えてもらうことができません。
こうしたご縁は水物だと思います。
縁をチャンスだと思って掴みにいくことが、自分を変えられる第一歩だと私は思います。

そして4つ目の理由として、中央大学会計専門職大学院は夜間で、しかも秋入学のコースがありました。
働きながら通うことができますし、あと数ヶ月すればもう入学できます。

私にとって唯一かつ最良の選択肢だと思ったので私は早速 入学の手続きを始めました。


「ベンチャーに学歴はいらない」説は本当か?

当時の私の上司だった原紳二さんは相談したところ、すぐに許可をしてくれました。
そして読んでおくべき本なども頂いた記憶があります。

こうした上司の応援もあり、私は無事に入学することができました。
しかし、ここで困った問題が発生します。

それは時間割です。

大学院は、月曜日が定休日だったのでお休みですが、火曜日から金曜日まで毎日18:30から21:00まで授業がありました。
土曜日は朝から晩まで3コマほどの授業を履修し、日曜日は授業はありませんが課題をやらなければいけません。

当時 私が勤務していた株式会社テレウェイヴは、従業員のほとんどが営業社員でした。
彼らからすると「大学院に行くのは時間のムダ!少しでも売上をとってこい!」という社風でした。
(詳細は「【私の職務経歴書~テレウェイヴ時代~】(2001年4月~2007年9月)」参照)

今では時代錯誤な考え方ですが、テレウェイヴ社は定時に退社するなんてもってのほか!という社風の会社です。

そこで社長以下、当時の取締役の皆さんが私にしてくれた配慮は「社命で毎日18時に退社している」ということにしてくれたことです。

このおかげで私が18時に定時退社をしても誰も文句を言わなくなっただけでなく、むしろ「毎日 夕方から外回りに行かされる奴」ということで同情すらしてくれました(笑)。

他に原紳二さんが図ってくれた便宜として、テスト勉強や論文作成を支障がない範囲内であれば業務時間内にやらせてくれたことです。

毎週のように出る課題やレポートに心が折れそうになったことはありますが、このように協力してくれる方がいるのだから逃げるわけにはいかない!というのが常にありました。

それから10数年が経ち、違う会社でですが私の部署のメンバーが在職しながらMBAコースに通いたいと言ってきたときに、私が当時してもらったように可能な限りの便宜を図ってあげました。

「上司がメンバーのキャリアを応援すること」は、会社や本人のためのはもちろんですが、自分が20代のときにやってもらって嬉しかったことを次の世代にやれたことが嬉しもありました。

いつか彼が私ぐらいの年齢になったときに、次の世代に優しくしてくれることをができればスタートアップにおける一つの良い「キャリアの循環」なのではないかと思います。


入学初日の驚き

2003年9月、私は防衛庁の横にあった中央大学専門職大学院の入学式に参加していました。

日本は4月から新学期ということもあり、秋コースは全員で30名ほどの少人数の年次でした。

入学式の後、カフェテリアでそのまま懇親会が実施されました。
当時 学部からそのまま進学してきた方は1人だけで、それを除くと私を含む当時26歳の面々が最年少でした。
そして驚いたのは自己紹介をしたときです。

皆さん名前と所属を言ってから挨拶をしますが、スタートアップ・ベンチャー企業と言われる区分の人はなんと3人だけでした。

それ以外の方はほとんど大企業・有名企業出身の方で、年齢も一回りほど上だったのです。

これは中央大学専門職大学院が会計とファイナンスに特化した大学院であり、会計やファイナンスの影響が大きい業界や企業から選抜されている方が多いためでした。

私は自費でしたが、これらの方の一部は会社負担で入学していました。
当然 社内の選抜テストをパスしてきている方たちですので優秀そうな雰囲気を醸し出すだけでなく、人柄もとても良さそうでした。

それまで若干調子にのっていた私は、自分が"井の中の蛙"だったことを入学早々に知らされました。
その方たちと比べると、当時の私は下の中、ランクでいったらCクラスでした。

これはスタートアップという小さい世界でなんとなく結果を出せていた時には気づかなかったことです。

一般的に"自分が如何にレベルが低いか"を受け入れるのは困難です。
しかし、当時はあまりにも自分とのランクが違い過ぎたのでもう素直に受け入れるしかありません。
素直に現状を認めつつ、諦めない心を持つのは私の長所だと今では思っています。

ちなみに「井の中の蛙大海を知らず」には続きがあるということをご存じでしょうか?

「井の中の蛙大海を知らず されど空の青さを知る」というものです。
これは、暗い井戸の中で暮らすカエルの楽しみは青空を眺めることだけだったからこそ、誰よりも深く空の青さを感じることができた、という意味のようです。

狭い世界でも何か一つのことを続ける(繰り返す)ことで物事を極めることができるという意味で、私が大学院を選んだ趣旨とも合致しました。

そこから2年間、勉強面では苦労はしましたがそこで身に付けた知識や経験が現在の私の基礎にもなっています。

"今からもう1回やりますか?"と聞かれると正直なところ遠慮したいですが、若くて体力があったからこそやり切れたのだと思います。


教えてくれない先生

私が受けた授業で衝撃的だったのが"ファイナンス基礎I"でした。
先生は大野薫先生で、グループワークでやる宿題が多いのが特徴でした。

大野薫先生は、ゴールドマン・サックス証券 東京支店金融戦略部長、ゴールドマン・サックス・アセット・マネージメントジャパン常務取締役日本支店長などを歴任した"すごい方"です。

ある日の課題で、私のグループの方がどうしてもわからないことがあり授業の後に先生のところに聞きにいきました。

大野先生はいつも明るく、お茶目な方です。
頂いたアドバイスは「この程度の問題がわからないことがわからない。家に帰ってよく寝て、翌朝 コーヒーを飲んでもう一回落ち着いてやってみればわかる。それでわからないならわからないと思う」というとんでもないものでした。

その時は「ひどい先生もいるものだ・・」と思いましたが、ちゃんと授業を聞いていて、リラックスして考えればわかる問題であることは事実でした。
言い方はともかく(笑)。

それ以降、私は仕事で煮詰まった時には潔く休憩し、脳みそを休ませることにしています。


"偉人"が教えてくれたこと

私が特に仲良くさせて頂いた先生に、田近耕次先生がいらっしゃいます。

私より少し上の公認会計士の方であれば知らぬ方はいないほどの"すごい先生"です。

国際会計基準委員会財団の初代評議員をはじめとした活動を通じ会計基準の国際的な調和及び統一や、国際社会における我が国公認会計士の地位の向上に貢献した方で、4大会計事務所(big4)のひとつであるデロイト トウシュ トーマツが「big4」の中では唯一日本の会計事務所の名前が使用されているのは田近耕次先生がいらっしゃったからだと聞いたことがあります。

こう聞くと緊張してしまうような方ですが、授業はとても面白く、専門の米国会計のお話よりも雑談ばかりされていた印象があります。

そしてお歳だったにも関わらず、お誘いすると必ず飲み会に参加してくれ、乾杯の挨拶をして頂ける優しい方でした。

その時の挨拶で、今でも覚えているものがあります。

それは要約すると「大学院の半分は勉強、残り半分は人づきあい。勉強も大事だが、同じぐらい志を同じにする同門のみんなと交流しなさい」ということでした。

残念ながら2011年に田近耕次先生は亡くなっていますが、亡くなる直前まで大学院の飲み会には欠かさず参加し、いつもウィットに富んだお話をしてくれました。

そのような方と授業だけではなく、飲み会などでフラットにお話ができたのは、今考えるととても貴重な機会だったと思います。


恩師との出会い

2004年春期は、入学して2期目です。
この期からゼミが始まりました。

当時はゼミに入るのが必須であり、よほどのことがない限り卒業論文を書かないと修了できないシステムでした。

私は入学するきっかけとなった久保幸年先生のゼミを選びました。

久保幸年先生は、東京証券取引所に勤め、1999年には上場審査部長をされ、マザーズ市場の設立にも尽力された方です。

授業では多くのケーススタディを、先生が手作りの資料や事例を用いて学びました。

上場基準やテクニカルな事例を勉強する「上場準備論」と、さまざまな開示事項を持ち寄って精査する「適時開示論」が主な柱ですが、私の当時の業務でもあったため非常に充実した授業でした。

授業などを通じて、私たちが久保先生から学んだのは「取引所の在り方」です。

私が「取引所」を作ることはないと思います。

ただ、どのような想いで新興市場であるマザーズ市場が出来たのかや、どのような企業が上場すべきなのか、上場している以上は適時開示を行うのは責務であることなどを直接学ぶことができたのは貴重な体験となりました。


大学院での出会い

大学院には、さまざまな人が集まります。

特に久保幸年先生のゼミには、面白い方が集まっていた気がします。

例えば ある時期、テレウェイヴ社の投資担当でもあった私は投資案件で悩んでいました。

良い案件に見えるのですが、どうも怪しい・・。
質問状や財務諸表等へも回答は得られるものの、なんとなく隠そうとしている印象を受けていました。
情報が限定的で、お互いが仲介者を通じてして話が出来ず、買い手の私としては売り手と直接交渉ができないこともあり「見送り」を決定しました。

頭を悩ませていた案件が完了し、清々しい気持ちでゼミの授業を受けていた後、そのまま何名かの方と飲みにいきました。

その際に"直近である飲食店の買収案件をやっていたこと"、"その案件の売り手が手強かったこと"を話していたときに衝撃の事実が判明しました。

なんと売り手の方が同じゼミにいたのです!
これにはお互い苦笑いです。

私を悩ませていた人物と、私は毎週机を並べて勉強していたとは・・。
そしてそんな良き好敵手とも一緒に学べるのが大学院の良いところだと改めて思いました。


卒業論文を断念しようと思ったら出し抜かれた件

年次が進み、4期目になるといよいよゼミで論文を仕上げなければいけません。
このころは本業の業務も忙しくなってきており、大学院には通えているものの、論文を書く時間を捻出することができませんでした。

この場合の救済措置として卒業論文ではなく、ページ数が大幅に削減された卒業レポートというものを以って卒業論文に替えるという制度がありました。

その時 私は論文ではなくレポートでも卒業できればいいやという気分になり、同期の方に相談しました。

その方は私の少し上の歳で、いろいろと相談にのってもらっていました。
久保ゼミの同期の方も、この方と私の2名だけなので私が論文を辞退したときに迷惑をかけるだろうことも容易に想像できました。

いろいろと言い訳もした上で、この方も「それはしょうがないよね・・」という話になりました。

話の最後にいつレポートに切り替えるつもりなのかを聞かれたので、私は既に先生に頂いていた日時を伝えました。

今ならメールやslackで相談できることではありますが、さすがに口頭で伝えるのがスジだと思いました。

数日後、久保先生の部屋を訪ねると、入れ違いにその方が部屋から出てきます。

おかしいとは思ったものの、私も重要な話があります。

緊張しながら話を切り出そうとしたところ、衝撃の話を先生から聞かされました。

「いま卒業論文ができないと言われたよ。論文は将来にも繋がるからちゃんと書こうと言っていたのに・・。」
「・・。」

やられました、完全に出し抜かれました。
更に久保先生は続けます。

「ところで伊藤君は今日はどうしたの?」
「論文の進め方と考察のところでご相談がありまして・・。」

私も論文をやめてレポートに切り替えたかったですが、2人しかいないゼミ生が揃って論文を書かないわけにはいきません。
まして久保先生は怒ると非常に怖い顔です。

私は普通に論文の相談をして、結局 死ぬ思いをして論文を書き上げて大学院を修了しています。

後日、この方になぜ私が相談したのに先に論文辞退を申し出たのかと聞いたところ、さすがに2人が揃って辞退となるとさすがにマズイ。。
となると先に言ったもん勝ちかなということでした。
私の完敗でした・・。


ケガの功名

論文を辞退し損ねた私ではありますが、良かったことがあります。
それは久保幸年先生ととても親しくなれたことです。

論文の執筆は大変です。
書き方の指導はもちろん、資料の集め方や考察のまとめ方なども大変お世話になりました。

ちなみに私の卒論のテーマは「風評被害が与える株価への影響」です。
IR担当だった私としては仕事と学業を両立できる良いテーマだったと思います。

久保幸年先生は、いつ寝ているのだろうと思うほど論文のドラフトや質問事項を送ると返してきます。

取引所史上に大きな功績を遺した久保幸年先生と濃密な1on1は、メールや面談を通じて繰り返されました。
ただ、これは厳しかったですがとても贅沢な時間だったと思います。

残念ながら2022年2月に久保幸年先生は亡くなっていますが、大学院の修了の際に頂いた言葉はその後いくつかの会社で管理部門を統括することになる私にピッタリな言葉でした。

「上善水の如し」
これは老子の言葉で、「最高の善は水のようなものである。万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善の例え」としたものです。
自分のことよりも会社や社会全体と、どんな状況でもその器(会社)によって適切な対応を取り、みんなが嫌がる仕事も積極的に引き受けなさい、と想いを込めてということでした。


このように大学院に通った2年間は、厳しくも苦しい2年間ですが、そこで得られた学びは非常に多く、早い段階で通ったからこそ、その経験を"資産"として長く活用できたと思います。

ここで得られた先生方や同門の皆さんとの交流は私の人生を豊かにしれくれました。

若手中心のスタートアップやベンチャー企業の場合、自分が50歳や60歳になったときの具体的なイメージを持つのが難しいです。
これは社内にそのような方がいらっしゃらない方ではないでしょうか。

大学院には、様々なバックグラウンドの方がいます。
会社という"村"を出て、"他流試合"をすることで磨かれることもあります。
ただし勉強はハードなので、気合と体力が充実しているときをお薦めします。

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