【私の職務経歴書~ランドピア時代~】(2007年10月~2011年9月)
私は、新卒で入社した株式会社テレウェイヴに6年半勤めた後、2007年10月から「株式会社ランドピア」という会社に転職しました。
入社のポイントは、ランドピア社が会社の端から端まで自分で把握できるような規模の会社で、これからIPO(株式公開)を目指すような活気ある会社だったことです。
ランドピア社について
(株式会社ランドピア)
https://www.landpia.co.jp/
主な事業内容;
・遊休地、狭小地の活用
・コンテナルーム、トランクルームの管理・運営等
上記の「遊休地」とは使われていない土地で、「狭小地」は狭い土地のことを指します。
これらは日本全国に多数あり、全部を集めると埼玉県ほどの大きさになると言われていました。
ランドピア社は、大きな土地を持つ地主から借り受け、それを複数の運送会社等に貸すサブリース事業を手広くやっていました。
地主は土地を貸したい、運送会社は土地を借りたいという需要と供給があるのですが、地主は財務状況が厳しい運送会社への貸し出しを渋ります。
そこでランドピア社が一度借り、それを転貸することで、地主は地代を、運送会社は土地利用を、ランドピア社は差益を得ることができます。
そしてもう一つの事業が「コンテナルームやトランクルームの管理・運営等」です。
特に海上用コンテナに内装を施したコンテナルームや、設置や管理も簡単であり、倉庫としての需要は法人でも個人でもあるので当時は東京と大阪を中心に数多くの直営店を展開していました。
私が転職した時にランドピア社は社員15名ほど、そのうち管理部門は1人です。
同社は、売上高は積み上げ式なので大きく伸びませんが、低い解約率と1件当たりの利用料金が長期になるこれら2つの事業を軸に着実に利益を積み上げる手堅い経営をしている会社で、営業主体の会社から転職してきた私には安定したストックビジネスをやっている素晴らしい会社だと感じました。
そんなランドピア社に、大学院の同期(年齢は20歳ほど上)でプロバイダー会社や航空会社で経理を中心にキャリアを積まれていた内田行彦さんと一緒に入社し、内田さんは管理部門を、私は予算実績管理や経営関連を担当し、会社組織を急ピッチで構築していきました。
「0からの組織構築」(2007年10月~2008年9月)
(主な業務)
・経営戦略の立案
・中期経営計画の立案
・上場準備資料作成(Ⅰの部、Ⅱの部作成)
・資本政策の立案
・グループ会社の統廃合
・余剰資産の処理
・企業会計基準の適用
・事業計画の立案
・月次決算の導入(予算実績管理等)
・証券会社選定並びに対応
・監査法人選定
・信託銀行選定並びに対応
・主たる従業員の採用
私はランドピア社で、私のために新設された「経営企画室」の配属となりました。
少し経ち、仕事もコツコツとやることが認められ室長に就任しました。
室長1人、メンバー0人ですが、隣には大学院で2年間一緒に学んだ内田さんが座っており、安心して経営関係の業務を進め、ほどなく主幹事証券と監査法人も決まり、IPO準備も着手しはじめました。
このころには内田さんが部長を務める管理部には経理、総務、情報システム・カスタマーサポート担当の従業員や現場管理のアルバイトの方などが入社してきました。
急速に人が増える管理部門ではありましたが、内田さんのリードもあって業務は安定し、退職率も低い良い会社でした。
そんなときにあのランドピア社だけでなく、世界全体を揺るがす大きな変化がありました・・。
リーマン・ショック・・
今は歴史の出来事のように語らえることが多いですが、2008年にあの「リーマン・ショック」が起こりました。
若い方には、「リーマン・ショック」といっても通じないことがあるので改めて記載します。
改めて数字で見ると驚愕ですね・・。
ランドピア社は、広義の不動産業界であり、その不動産業界は金融機関の資金によって動ていることが多いので、とても大きな影響を受けました。
これは不動産会社の多くは物件の売買でなりたっており、その売買代金の多くを金融機関からの借入でまかなっていたためです。
価値が下落してしまうため売ることが不動産の購入資金を返済できず、銀行側も財務状況が悪化し返済が厳しい不動産会社に貸出ができない・・。
ランドピア社は、IPOを目指す過程で不要だった不動産を売却しており、奇跡的にリーマン・ショックの直撃を避けることができました。
それでもコンテナルームや土地の貸出先の中小企業や運送会社の業績が悪化し、それまで順調に伸びていた業績が一転して単月赤字に、通期の着地も当然赤字見込みとなりました。
業績だけでなく、リーマン・ショックは、IPOへも大きな影響を与えました。
リーマン・ショックにより業績が悪化した上場準備会社は多く、前期の業績を審査されることになった翌年2009年はなんと上場企業数は僅か19社!
この記事を書いている前年(2022年)の新規上場企業数が112社(TOKYO PRO Marketへの上場 21社含む)と比べるとその数値の凄まじさ、IPO市場の悲惨な状況も伝わるのではないでしょうか・・。
「事業企画への復帰」(2008年10月~2011年9月)
多くの会社で業績は急激に悪化し、IPOどころか事業を立て直すことが最優先となりました。
この時期は、証券会社でIPO業務を担当する公開引受部の方はどこも仕事がなくなり開店休業状態でした。
そしてIPO準備を推進していた私も「社内失業者」になってしまいました・・。
こうなるとIPO準備担当は単なるコストセンターです。
利益は生まない、仕事はない、給与は発生する・・。
ランドピア社の皆さんは大人な方が多かったので責められることはなかったですが、性分として私はヒマなのが耐えられません。
そこで私がはじめたのは商材の企画です。
当時 ランドピア社は主力商材であるコンテナ倉庫を、韓国で製造委託をし作ってもらっていました。
海上用コンテナを利用したコンテナ倉庫は、それ自体が鉄の塊であり、非常に高額です。
元々利幅が少ないことがネックだと思っていた私は、このコストダウンに取り組みました。
当時のアジアは、日本が未曾有の経済ショック、韓国は人件費の値上がりすさまじく、製造業が苦戦するという状態でした。
そこで私が目を付けたのが韓国のお隣、中国です。
きっかけは失念しましたが、大連在住の日本人の方が会社に遊びにきてくれていました。
その日本人の方は中国の経済成長、モノづくりもしっかりと教えれば製造する力は十分にあること、日本や韓国に比べて人件費が安く、アジアの工場になる可能性があるということを熱心に語ってくれました。
そこで私はその方と大連に渡り、ランドピア社製のコンテナルームの図面を見せて製造の可否を検討してもらうことになりました。
そして日本から建築士の方を引き連れ、2人で中国に行くこと数回、中国の工場が製造を受けてくれることになりました。
コンテナルームの製造原価も下がり、韓国から中国に製造拠点を変えたことによる物流コストの値上がりはありましたが、それでも大きなコスト削減を達成しました。
これで利益が出せると思っていた矢先、中国は急激に成長し、物価や人件費が高騰しはじめました。
これに対応するため、大連にあった工場の提携先を紹介してもらい、南通市へ製造拠点を移しました。
これはランドピア社が取引をしていた工場が政府系の工場であり、その系列を紹介しもらいやすかったというのがあります。
やがて南通での製造も厳しくなり、私はそのまま長江を遡っていき、最後は揚州(ようしゅう、Yángzhōu)の工場群でやっと価格と品質に納得ができるコンテナルームを作ることができました。
この時期、四半期毎に中国に渡り、のちにコロナ発症の地とされる武漢まで鉄を作ってもらう交渉や、品質のチェックなどを行っていました。
私は中国語をまったく話せないので、大連から帯同している通訳の方を介しての交渉でしたが、中国人の交渉力の強さを直に学ぶことができたのは貴重な体験となっています。
もちろん中国でのビジネスは、良いことばかりではありませんでした。
中国漁船と日本の海上保安庁の間で発生した「尖閣諸島中国漁船衝突事件」が発生したときもちょうど揚州におり、日本人というだけで身の危険を感じる時期もありました。
このときはじめてカントリーリスクというものを実感し、海外で仕事をする場合は自分は「外国人」であるということを自覚しました。
だいぶ昔の話ではありますが、中国での話は「えっ?」というような体験が多く、登壇や飲み会の場ではネタとなっています。
これについてもいつか記事として書いていけたらなと思います(笑)。
【私が経験したウソのような本当のお話】
・本当にあったハニートラップ
・私の前に揚州で活躍した日本人?
・義理人情のレベルがスゴイ!
・私の余計な一言でサッカースタジアムが・・
・通訳してはいけない発言を通訳されると・・
・工場の食堂のご飯を食べていたらまんじゅうから・・
・入れないお風呂・・
・突然キャンセルされた調印式・・
このように中国での仕事は学びも多く、コンテナルームを作るという製造業の仕事はITサービスから転職してきた私にはとても刺激的でした。
中国でのコンテナルームの製造は、売上原価の大幅な削減に寄与し、ランドピア社は再び業績は改善しはじめました。
こうなると日本でも仕事が増え、再びIPOに向けて動き出すことなります。
リーマン・ショックの傷も癒え、さぁ、いよいよ上場申請をしよう・・という時に「東日本大震災」が発生しました。
東日本大震災・・
2011年3月11日14時46分、私は東京簡易裁判所にいました。
主にレンタルルーム等の賃料がランドピア社の主たる収益でしたが、なかには賃料を払って頂けない方もいらっしゃいます。
当時のランドピア社では、一定金額に達すると、法務担当も兼ねている私が少額訴訟をすることで賃料を回収していました。
賃料を滞納している方と15時半から審理(裁判)だという直前、激しい揺れに襲われました。
東京簡易裁判所は、建物も古く、裁判が始まる前に廊下で待っている私の目の前で、壁に大きなヒビが入り始めました。
通常の裁判と異なり、簡易裁判は1回の審理で決します。まして期日の日時に現場にいないというのでは原告とはいえ負けてしまいます。
事務員の方も避難をしてもいいが、審理の時間には指定された部屋にいるように指示をしてきます。
さすがに身の危険を感じたので事務員の方に文句を言おうと思った矢先、大きな余震が発生し、館内放送で一斉に避難するように指示がありました。
結局、この日は解散となり、全ての審理はストップ。
私は状況はわからないものの交通機関は全て止まっていると聞いたので、会社に電話をかけながら霞ヶ関から日本橋蛎殻町のオフィスまで歩いて帰りました。
オフィスでは既に管理部長の内田さんが従業員の安否確認とオフィスに寝泊まりができるように食料や寝具の調達を、帰宅を申し出ている従業員には営業車両を貸し出すなど指示を出していました。
私もそれを手伝いつつ、どうしてもこの日に呼び出さているクレーム対応のため、休む間もなく向かいました。
この時は取引先の代表の方が「地震なんて関係ない、アポイントがあるんだからこちらは全員揃っている。とりあえず来い!」とお怒りでした。
結局、営業部長と私は、普段なら片道30分程度の道のりを、2時間ほどかけてむかいました。
このような時でも自分の都合を主張するその取引先には呆れましたが、約束通り現地に赴くと代表の方以外は地震の影響で誰も集まっていませんでした。
普段はまず怒鳴ってくるその代表者も、東日本大震災当日に呼び出した上に、自社の人が誰も揃っていないという状況を恥じ入り、ランドピア社はどんな時でも約束を守る会社だという評判を得ることができ、以降はとても良好な関係を築くことができましたがそれは後日のお話です・・。
クレーム対応も終わり、営業部長と私はオフィスに帰りましたが、そのころになるとようやく正しい情報が入ってきました。
地震が発生したのは東日本らしい、その年に開設した仙台のトランクルームの拠点の状況はわからない、しばらく仕事どころではない・・。
リーマン・ショックの時は目に見えない「経済」が悪化したのに対し、東日本大震災の時は物理的な被害もあったのでより心が折れそうでした・・。
そんな時でも、営業部長と管理部長の内田さん、私は従業員の安否確認、仙台拠点の動向、今後の事業展開や取引先との連携などやることは山積みです。
私たちは1週間ほど会社に泊まり、この危機対応の陣頭指揮をとっていました。
私以外のお二人もスタートアップが長く、トラブル対応には慣れていたのは不幸中の幸いでした。
困難な時でも逃げ出さずに、冷静な判断と自身が動いて対応する姿はとても頼もしかったのをよく覚えています。
余震はあるものの少しづつ従業員が出勤しはじめたころ、ランドピア社の社長に営業部長、内田さん、私が会議室に呼ばれました。
そして衝撃の一言を発しました。
「もう上場準備は止めよう。しばらく事業も手堅くしていこう・・」
ランドピア社の決断
ランドピア社の社長の主張はこうです。
どんなに努力をしても、数年おきにリーマン・ショックや東日本大震災が発生することで状況はいきなり悪化する。
拠点を拡大していたからこそ被害が大きかった。主力の「遊休地、狭小地の活用」と「コンテナルーム、トランクルームの管理・運営等」に専念するしかない。
IPOも業績に左右される。利益も出ているし当面は停止。
私も経営陣の一人でしたので、上記の理由は納得できます。
ランドピア社の社長や私だけでなく、多くの社長が同じ思いだったと思います。
しかし、そのようなときこそ事業をしっかりと伸ばし、IPOをするだけでなく、経営基盤のしっかりとした会社を作るべきだと思います。
私だけでなく、内田さんなどは声を荒げて社長を責め、営業部長は怖い顔で社長をにらみつけていたので思いは同じだったと思います。
私もIPOに向けて整えていた経営体制が不要になり、採用したメンバーも費用になってしまいます。
それから1ヶ月、連日私たちは協議を重ねましたが社長の決定は覆らず、ランドピア社は現業に集中し、IPO準備や投資等はすべて停止することになりました・・。
そして退職へ・・。
その決定が確定したあと、私は自分自身が何をしたいのかを考えることにしました。
内田さんや営業部長といった頼もしい同僚がおり、業績は堅調、IPO準備などきつい仕事はしないでのんびりするのも悪くない・・。
ストック・オプションももらえているし、給与も良かったのでこのままランドピア社で働くという選択肢は当然ありました。
当時の私は32歳。
テレウェイヴ社という激しいスタートアップ(※詳細は「【私の職務経歴書~テレウェイヴ時代~】(2001年4月~2007年9月)」参照)を経て、リーマン・ショックや東日本大震災にもめげなかったのは、安定した人生を過ごしたかったからではないことに改めて気が付きました。
これまで培ってきたスキルや経験を、そして過酷でもいいのでそれを活かせる会社で働きたい、そんな思いで転職活動を始め、出会ったのが3社目の会社となる「株式会社ウィルグループ」です。
このお話はまた次の機会に・・。
(関連リンク)
・【自己紹介(概要)】
・【私の職務経歴書~テレウェイヴ時代~】
・【私の職務経歴書~大学院時代~】
・【私の職務経歴書~ランドピア時代~】
・【私の職務経歴書~ウィルグループ時代~】
・【私の職務経歴書~GameWith時代~】
・【私の職務経歴書~ABCash Technologies時代~】
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