それがあなたの「生きる」カタチですか?〜三体Ⅱ 黒暗森林(下)
世界的大ベストセラー『三体』の第二部、『黒暗森林』の下巻を茫然自失な読後感をもって読了。
途方もないスケールで構築され、展開するこの世界観には本当に圧倒されます。例の喧しい感染症騒ぎの諸々から生じる閉塞感、停滞感を片時でも忘れることができます。(ま、しばらくすると若干戻ってはしまうんだけど)
第一部でどでかい風呂敷がひろげられ、この第二部ではそれを受けて怒涛の加速、凝縮、膨張といったジェットコースターに翻弄される感覚はこれまでの読書体験で味わったことのないもの。
副題である「黒暗森林」が、なぜこれである必要があったのかということも、読み終えてから解説まで含めて読むとさらにさらに納得。
日本語訳についても、その訳し方(中国語から日本語へ、それをたたき台にして最終的な訳者が本書の形に改稿)や周辺の事情(オリジナルと英語版での違いなども含めて)を語ってくれているので、サブテキストとしても大変興味深く助けになります。
たんにSFにとどまらず、ミステリーとしても桁違いのスケールで(100年単位、それ以上)張られていた伏線が回収されていくこの第二部下巻は爽快であり、また次の第三部への期待と「どうなってしまうのだろう」という不安をも併せ持つ。
奇しくも例の感染症騒ぎ(最近こればかり言っているけれど)によって浮き彫りになったディストピア像も読み取れたりして。
地球外文明は存在するか、もし存在するとしたらどこにいるのか。
フェルミ(フェルミ推定、マンハッタン計画にも参加のあのエンリコ・フェルミ)のパラドックス(地球外文明が存在する可能性は極めて高いにも関わらず、それが存在する証拠を見つけていない)というものをはじめて知ったのだけれど、それに対するひとつの回答(仮説のひとつ)がこの「黒暗森林」だというのは、解説でも語られているようにすこぶるシンプル、わかりやすい理論。
しかし、問題は次の第三部の日本語訳が刊行されるのは来春だということ。
今のこの臨場感と小説世界の諸々の記憶を保ったままそのときまでいられるだろうかという不安。(読み返せばいいのだけれど)
ネットで調べると、原書(中国語版)にはあたらずとも英訳版に手を伸ばした人はけっこういるようで、自分もその誘惑に駆られつつも(中国語を勉強しようかとも検討したけれど、間違いなく日本語訳が出る頃にすら間に合わない)楽しみにして待つかなぁというところ。
この三体でもそうだけれど、『鬼滅の刃』でもあらためて、そしてすこぶる感じたのはネーミングの力、センス。(それも表意文字であるところの漢字の)
面壁者(wall facer)や破壁人(wall breaker)などなど、これはアルファベットではもちえない音とイメージ(字面からの)の豊かさが感じられる。(翻訳者のセンスもにも感謝、リスペクト)
鬼滅の刃だと、人名をはじめとして、火の呼吸とか水の呼吸とか獣(けだもの)の呼吸とか、十二鬼月とか、炎柱とか水柱とか etc...
池袋ハンズで見つけた特設コーナー。(伊之助がつぶれてますね)
俺的美学ではこうしたプリティなものは置かないのだけれど、煉獄さんのだったら買ってたなぁ。(映画の影響で大人気なのか、煉獄さんのは見当たらなかった)
そして。
ハンズだけではないけれど、マスク着用(の要請)等、いろいろ鬱陶しいことを宣言(張り紙等で)はしていても、もはやそれは完全に形骸化していて(しつこくこだわって「対策」しているフリをしているものはいるにせよ)、別段わたしはそれについて注意されることも迫害されることもないことが最近わりと普通。
ま、場所によるんだろうけれど(そうしたフリをしないと共同体から排斥される、異邦人のムッシュ・ムルソーのように)。
けっこう、もう気づいてるんだろうなとは思う。
それでもし続けるのか。
その理由ももうわかっているけれど、それでも問いたい。
それがあなたの「生きる」というカタチですかと。