【短編小説】図書室のエミちゃんと友達
今日は週に一度の「出張図書館」の日だ。
と言っても、大それたことをするわけじゃない。
〈とある人〉のために、代理で本を選書し、宅配するだけのことだ。
「今回は『友達』をテーマに選書しようと思うんです」
僕がそう言うと、同僚の司書たちは次々に候補を挙げてくれた。
「ねぇ、真野くん、『ふたりはいっしょ』はどう?」
「いいですよねぇ、がまくんとかえるくん。だけど『ふたりはいっしょ』はすでに持っていらっしゃるんですよ」
「あら、そうなの。それじゃあね……」
みんなで選んだ五冊を、いつもの深緑の紙袋に入れて、僕は図書館を出た。
僕はいま、地元の市立図書館で司書として働いている。
僕が司書になった理由を語るには、まず〈エミちゃん〉との出会いから話さないといけない。
『図書室のエミちゃんと友達』
小学四年生の春。
僕は先生の勧めで、久しぶりに学校の図書室を訪れた。
そのとき、図書室にひとりいたのがエミちゃんだった。
エミちゃんは僕に気づくと、読んでいた絵本から顔を上げた。
そしてまるでパンが膨らむみたいに笑顔を見せて、ぱたぱたと僕に駆け寄って自己紹介をした。
「はじめまして。〈まるやまえみ〉です。『エミちゃん』って呼んでね」
「えっ……、いやです」
「がーん!」
思春期の入口に立っていた僕はエミちゃんに背を向け、しれっとひとり、借りる本を探し始めた。
エミちゃんはというと、まったくへこたれず、僕の後ろを「ふんふん」と言いながらついてきた。
「真野くんはどんな本を借りたことがある?」
「えっ、み、『ミッケ』とか、『ウォーリーをさがせ』とか、なぞなぞの本? とか……」
「うんうん。じゃあ『かいけつゾロリ』は?」
「ちょっとだけ。でも、もうそんな子どもっぽい本は読まなくていいかな」
「あらっ、大人だって子どもの本を読んでもいいのに!」
エミちゃんが『かいけつゾロリのチョコレートじょう』をちらちらと見せてくるのを無視して、僕は結局、どこかの国の偉い人の伝記を一冊借りた。
図書室を出る間際、エミちゃんは、小さい子に絵本を読み聞かせるような優しい声で言った。
「真野くん。本はね、お友達なんだよ」
「そういうのいいよ」
「あははっ。そう思うよね。でもね、本当だよ」
また明日。エミちゃんは小さく手をふった。
その夜。僕は借りた本をベッドにぶん投げた。
(なんなんだよこの本! 難しすぎる! なにが友達だ!)
表紙には「中学年から」って書いてるのに、文字が多いし、知らない言葉ばかりで、なんだか読めば読むほど馬鹿にされている気分になった。
(こんなことなら、『ゾロリ』を借りればよかった……)
◇
「きのう借りた本はどうだった?」
エミちゃんは今日も温かい丸いパンのように笑った。
難しすぎた。つまんない。
そう言おうとしたところで、僕は突然、口に〈透明なモチ〉を詰められたみたいに、言葉が出なくなった。
「……もしかして、おもしろくなかった?」
僕はなんて答えようかしばらく悩んだけど、結局良い言葉が見つからず、ただ頷いた。
するとエミちゃんは、なんと怒りだした!
「なんだってー!! この! このっ!」
僕は驚いた。
エミちゃんは僕に怒ったんじゃない。
その難しい本に、本気で怒りだしたのだ。
「こら! どうして真野くんを嫌な気持ちにさせるの! もっと簡単な言葉を使ったっていいじゃない! 可愛くてカッコいい挿絵があったっていいじゃない! うちに持って帰って漬物石の代わりにしてやろうか!」
「も、もういいよ。そんなに怒らなくても……」
「大丈夫だよ、真野くん。本は『お友達』なの」
(意味が分からないよ!)
友達だったら普通怒鳴らないし、友達だったら……、傷つくようなことを言ってはいけない。
困惑する僕に、エミちゃんが笑って言った。
「本はね、怒ってもいい『お友達』なのよ」
怒ってもいい『お友達』?
僕はエミちゃんの言葉を繰り返した。
「もちろん、作者さんの前ではそんなことをしちゃいけないよ。みんな真心こめて本を作ってるからね。でもね、本を読むとき、ひとは本と二人きりなの。本を読んでいるときだけ、世界はたった二人なの。そして本はね、とっても強い『お友達』。『つまんない』、『わかんない』と言っても、本はへっちゃらだよ。だから、いつもは友達の前で我慢する、いやな気持ちも、本の前では、我慢しなくていいんだよ……」
我慢しなくていい。僕は呟いた。
そして気づいた。
(そうか、僕は、友達と話すとき、我慢しないといけないと思って、途方に暮れていたんだ……)
僕は、図書室を訪れた理由を思い出した。
◇
道徳の時間。
先生は一枚の紙を僕たちに見せて、それを両手で勢いよく丸めて潰し、そして広げた。
「この紙は『心』です。一度傷ついてしまえば、二度と元に戻りません。だから皆さんも、友達の心に傷がつかないような言葉を使いましょう」
すると突然、教室が真っ暗になった。
いつのまにか、クラスのみんなの背中に、一枚の紙がそれぞれ貼りつけられていた。
Aくんの背中の紙はしわだらけ。
昨日ふざけて「うざい」と言った。
Bさんの背中の紙はしわだらけ。
昨日女子がいないところで「きもい」と言った。
当時の僕たちは、「誰がいちばん面白くて少し悪い言葉を思い切りよく言えるか」というゲームを楽しんでいた。
僕は今まで自分の口から出た、「面白くて悪い言葉」を思い出した。
バカ。きもい。うざい。くさい。ブス。
(僕の言葉は、誰かの心に、一生消えない傷を、つけたってこと……?)
「——真野くん。話し合いするから、早く机を動かして」
隣の席のCさんの声で我に返った。
教室がいつもの明るさに戻る。
(うん。わかった)
「真野くん?」
(あれ、声が、どうして)
「おーい、どうしたの?」
(僕は、喋りたいのに……)
「せんせーい、真野くんが〈へん〉でーす」
くしゃっ。
◇
僕は、僕の言葉で友達に癒えない傷をつくること、そして、誰かの言葉で僕自身が傷つくことが怖くなった。
その恐怖心のせいで、僕は友達と喋りたいのに、いざ喋ろうとすると、見えない誰かが〈透明のモチ〉を、僕の口に放り込むようになってしまった。
(僕はこのまま一生、友達と話せないのかな……)
途方に暮れていたとき、僕は図書室でエミちゃんと出会った。
◇
僕はたくさん本を読むようになった。
『かいけつゾロリ』、『かいぞくポケット』、『落第忍者乱太郎』、『ダレン・シャン』。
相変わらず友達とは話せなかった。
だけど読書は、僕にとっては紛れもなく「友達とのお喋り」だった。
まずは本の〈お喋り〉を聴いて、次に僕の〈感想〉をぶつける、そんなキャッチボール。
そして僕は、エミちゃんとは普通に話すことができた。
それはエミちゃんが友達のようで、友達ではなかったからだ。
エミちゃんは毎日、絵本や子ども向けの本ばかり読んでいた。
「エミちゃんも、もっと大人っぽい本を読んだらいいのに」
「そう? 絵本だって大事なことがたくさん学べるよ」
「たとえば?」
「そうねー。真野くんは『大人』は物知りだと思う?」
「んー……、物知りだとも思うし、なんにも分かってないと思う」
「わあ! 真野くん、カッコいいこと言うじゃん!」
カッコいいことを言ったつもりだったので、僕は照れた。
「そうなの。大人はね、大事なことをたまに忘れちゃうの。だから思い出すために、絵本やこういう優しい本を読んだ方がいいの」
エミちゃんが見せたのが、アーノルド・ローベルの『ふたりはいっしょ』だった。
しかしその後、がまくんはかえるくんと遊んでいるうちに、〈予定の紙〉が風で飛ばされて、がまくんは何もできなくなってしまう。
「エミちゃんはなんでこの話が好きなの?」
「そうねえ。たくさんあるんだけど、最後は二人で『おねんね』を思い出して、一緒に寝ちゃうところかな」
「うーん?」
分からないよと言おうとしたが、エミちゃんが赤ちゃんを抱くみたいに、『ふたりはいっしょ』を読んでいるから、僕は透明なモチをひとつ食べた。
◇
それからずっと、僕は図書室に通った。
そしてあっという間に、小学校を卒業した。
エミちゃんとは最後に握手をして、さよならした。
卒業後も、僕は本を読んで、読んで、読んで、自分の理性を信じる勇気をたくわえて、ようやく同級生と喋れるようになったのは、高校三年生の秋だった。
めでたく読書好きになった僕は、運良く地元の市立図書館の司書になって、そしていま、「出張図書館」の僕は——「丸山」の表札の下のインターホンを押した。
「やあ、真野くん。いつも悪いね」
玄関から出てきたのは、エミちゃんの旦那さんだ。
エミちゃんは今年、七十歳になる。
僕が小学校を卒業して数年後に、学校司書を早期退職して、義理のお母さんの介護に専念していたそうだ。
そして一年前、お義母さんが亡くなって、エミちゃんはいろんなことを忘れてしまった。
お義母さんの介護のこと、旦那さんのこと、そして僕のことを、エミちゃんは覚えていない。
「こんにちは、『出張図書館』さん」
「こんにちは、丸山さん」
エミちゃんはソファからゆっくり立ち上がり、僕に向けて一冊の本を見せた。
「ごめんなさい。この一冊はね、少し読むのに時間がかかってしまって、もう一度借りたいの」
「もちろん大丈夫ですよ。あと一週間の期限があります。ゆっくり読んでください」
「ありがとう。これ、すっごく面白い。カウンセラーの真鍋先生が素敵。『あなたは、困った子なんかじゃない。困っている子だよ』……、とっても良い言葉」
「はい。僕もそこが好きなんです」
僕が前回選書した、工藤純子さんの『となりの火星人』は、外からは見えづらい悩みを抱える子どもたちの物語だ。
選書は、四冊は絵本で、一冊は字の多い児童書にしている。
旦那さんによれば、エミちゃんは楽しそうに本を読みながらも不意に、ページをめくる手が止まってしまうそうだ。
「きっと、失った思い出と、現実の老いた体との、折り合いをつけているんだと思う」
エミちゃんのなかでは、自分はなんらかの事情で学校に行けておらず、そして家には親切なお手伝いさん(旦那さん)がいることになっていて、
「私、いつの間に、おばあさんみたいになったんでしょう……」
そう言って、時折とても落ち込むらしい。
だけど、落ち込むだけで終わらないからこそのエミちゃんだ。
「まるで悪い魔女に魔法をかけられたみたい……」
「『ハウルの動く城』のソフィーみたいに?」
「……そう! さすが『図書館』さん!」
僕たちは笑う。
一度ついた心の傷は、完璧には癒えない。
だから僕たちは、傷と折り合いをつけるために、僕たちだけの物語をつくる。
「丸山さん。今日のあとのご予定はどうですか?」
「予定? ちょっと待ってね」
エミちゃんは、自室に戻り深緑の手帖を持ってきた。
「えーっと、朝ごはんをたべて、服を着替えて、お庭に水をまいて、お昼ごはんも食べて、図書館さんが来てくれたからここは消して……」
「丸山さん。僕の予定にはですね……、『丸山さんとお散歩する』とあるんです」
「ええ?」
僕は『真野くん』を忘れたエミちゃんとの物語を、勝手にこう書きかえている。
「どうでしょうか。僕と一緒に散歩に行ってくれませんか?」
——僕はエミちゃんと、本当の友達として、出会いなおしているのだと。
「……もちろん。『図書館』さんとお散歩なんて、とっても素敵」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
「ねえ、『図書館』さん」
「はい。なんでしょう」
「せっかく仲良くなれたんだもの。私のことは『エミちゃん』って呼んでね」
「……はい」
「『図書館』さんのことも名前で呼んでいいかしら?」
「……ええ、ぜひ」
僕はとびきりの笑顔で、エミちゃんに自己紹介をした。
(おわり)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?