キレることの大事さ

今日ものっすごいキレられた。この年でこんなにキレられることってなかなか無いから身体がとてもびっくりした。

明確な悪意とかトゲのある言葉を吐かれた時、体が萎縮して心が騒ぎ出す。そして自分の中から相手に対する敵意がむくむくと湧き上がり、「なんで僕があなたのせいで攻撃的な人間にならねばならないのだ。」と自分の体が急に臨戦態勢になるのを感じる。

あの妙にじとっとした湿り気が身体を這っていくあの感覚が僕は本当に大嫌いだ。

怒っている人は想像力があと一歩及ばなかった人で、可能性を全て踏みにじりながら怒る。「〇〇は〇〇であるべきはずだ!」という調子で相手の背景を想像することなく怒る。そしてそれが伝わると思っている。なんで自分の痛みが同じように痛めという対価で伝わると思うのだろうか。痛みは具体性でしか伝わらない。

例えば目の手術をした人を見て、手術の詳細を聞いて「もう話すのをやめてほしい!」と思うのと同じように、具体的であればあるほど痛みは共感してもらえる。きつい時はより具体的に自分の詳細を伝えてあげるほうが必ず伝わる。絶対に目を手術してあげることでは無い。

ただ、そんな悠長なことも言ってられないのが怒っている人で、目の痛みを伝えるために本気で相手の目の手術を始めようとする。どう考えても気が狂っている。目の手術されそうになったらこっちだって全力で自分の目を死守するに決まってんじゃん。

ただ、怒っている人はそんなことを、想像する猶予などなくあまりにも自分の目が痛すぎるのでお前の目も手術してやる!と襲いかかってくる。どう考えても想像力不足だ。

でもよくよく考えると、怒っている人はそれくらい痛いのだ。
自分の大事にしている場所を踏み荒らされ、そこで明らかな損失があったと伝えようとするのが怒るということなら、怒るとはつまり「ここが自分の大事な場所なんです!」という叫びでもある。

僕は久しくキレていない。これはよく無いのではないかと思った。つまりキレないということは大事な場所が無いことか、もしくは大事なものを公言できる勇気が無いということにもなってしまう。

それでどんどんキレていこう!とはならないが、キレるって大事だなと丸ノ内線の満員電車の中で肘打ちされながら思った。

そして僕はやっぱりキレられなかった。

おわり。

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