香山の38「カーネル・パニックⅩⅡ」(56)

 他人の渦にからめとられること……字面だけ見れば情けない。しかし十分に健康の域にあることは、成熟したお前であれば承知であろう。同様に俺はこの冷酷が、一般性の名を掲げながらゆらめく重力によって屈折される様を見ながら、これでよかろう、と思った。自分はこの人間社会に属している一要素に過ぎない、という自覚が堕落した幸福を育んでいった。最初はこの堕落を恥じた。ところがやがて堕落は、自分は一人ではない、という認識の向こう側に見た拷問を、抱擁へと癒した。
 かくて俺は、自身の成長が、狂気を和らげはじめていることを認識し、そして、お前に対して仲間意識を感じはじめた。こんなに人から執拗な監視を受け、長く同じ人間と働いたことは、今までになかった。このナイフにだって愛着なんぞない。刃こぼれを見つければすぐに捨てるタチなのだからね。しかし、お前だけは違った。お前の言う通りに事を運べば、確実に、何の支障もなく仕事を遂行することができた。過去に無鉄砲に犯した傷害事件から何度遡及されて警察の厄介になったことか知れない。しかし、お前の計画を頭に入れた上で仕事に臨めば、俺の衝動は抑えられたし、司法の目を逃れることも安易になった。俺はそんな自分にない論理を持つお前を道具ではなく、また別の概念として捉え、尊敬するようになっていたんだ。そういう自覚のステップは、人生においてはどうも重要なものらしい。お前の存在を頭から葬ろうと躍起になり、それができないと苦しんでいたのに、そう自覚すると一気に肩の荷が下りた心地だったよ。そして、拍車をかけるようにお前への愛着じみたものが培われた。こんな感情は味わったことがない。それを愛情と表現するのは説得力に欠けるのかもしれない。しかし、俺は、これはきっと愛情なのだと思っている。……この自覚は、俺の矜持の心臓を握りつぶす怪物だ。
 俺は今日あの筑紫口で、お前についた嘘を告白した。あのときの俺が一体どうして自分の恥をさらしてまでお前に誠意を示そうとしたのか。お前に対して働いた罪悪に心を貫かれたからだ。こうして俺の罪悪への不能も今日消え去った。それでも俺が動じないのは、堕落があるからだ。
 人の固有性なんぞはどこにでもある。眉毛の太さだっていい、手のひらの大きさだっていい。だって一般性が存在する以上は、固有性は必ず存在するからね。そしてそれを消すことのできぬものだと呪詛を唱えるから、一人の人生が潤沢を得て瑞々しいものになる。
 ここまで話せば、お前も俺が一体どうして六本松駅まで足を運ぼうと思ったのかは、もう分かるはずだ。お前と仲良くなりたかったんだよ。どす黒くて、痛みのある疑惑を抱えながらも、俺はお前と仲良くしたくて今日起床したんだ。どうもまだ衝動を抑えきれない俺は人へ刃を向けそうになることがあった。しかしおそらくそれも今後解消されていくはずだ。
 今までは他人伝いの間接的な証拠しかなく、確信を持てずにいたが、お前のその腕の注射痕がもう、それを決定づけてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?