見出し画像

続々々・美林華飯店での昼飯の自分にとっての特別さ

美林華飯店でインターネットを検索すると、堀江貴文のテリヤキというグルメサイト上の記事が上位でヒットする。

堀江貴文にとっては、上海蟹を食べに行く店という感じのようで、シーズンになると何度も行くというようなことを書いていた。

けれど、いくら蟹目的で食べに行くからといって、蒸し蟹以外にもあれこれ調理されたものも食べていたのだろうし、蟹を剥いてくれるからとか、気取らない店内で気を楽にして食べられるからというだけではなく、出てくるもの全体に満足してはいたのだろう。

以前からそうだけれど、堀江貴文はうま味調味料を体に悪いとか味覚に悪影響だというようなことを言ってアレルギー的に忌避している人たちを非科学的だと非難している。

ちょっと前にも、堀江貴文がリュウジのバズレシピの人とうま味調味料を忌避する人たちのおかしさについて語り合っている動画がアップされていた。

俺もこれまで化学調味料とかうま味調味料が無添加のものを選んでいるという人が、酵母エキスとかうま味調味料と同じような効果のあるものを添加している食品をありがたがっていたり、ひとに勧めたりしているのを見ていて、自分で味の違いも感じないのに、何かが無添加なことを喜んでいるなんて空虚すぎるだろうとずっとうんざりしてきたし、その典型でもある、うま味調味料がききすぎたちっとも無添加風の味わいではない茅乃舎のだしについても語られていて、動画には特に悪い印象は持たなかった。

俺も中年まで生きてきて、子供時代からうま味調味料の添加されたものをそれなりに大量に食べてきたけれど、特に健康に問題を感じたり、味覚的に鈍感になってしまっていたとも感じてこなかった。

うま味調味料が添加されていないものばかりを食べていると、たまにうま味調味料がたくさん添加されているものを食べたときに、いつも食べているものには感じない、何によるものなのかわからない感触が違和感のように感じられたりはするけれど、数回そういう食事が続けばもう違和感はなくなっているし、ということは、味覚は破壊されてなどいなくて、ただどういう味に慣れているのかという問題でしかないのだろう。

体に悪いとか、味覚が破壊されると言っている人たちは、本当に何かしらの実感があってああいうことを言っているんだろうかと思う。
自分の体で実感したものがあるわけでもなく、自分が持ち上げたいものを持ち上げる目的で、うま味調味料を攻撃したいために言えそうなことを言ってるだけなのであれば、それは明確に不誠実だし、デマみたいなものだということでは反社会的ですらあると思う。

俺がこの十年くらい、基本うま味調味料や砂糖や味醂などの甘味料を添加しないで自炊しているのは、美林華飯店の昼飯を食べ続けて、美林華飯店の味を満喫するために味わい方になれすぎてしまったとか、弓田亨さんの本を読んでルネサンスご飯のレシピをあれこれ試してしっくりきたからとか、いろんな経緯があるけれど、それはそのほうが食事が楽しくて心地いいからであって、何は体に悪いから使わないとか、そういうことはほんの少しも考えたことがなかった。

稲田俊輔もそんな感じの語り方をしていた気がするけれど、同じくらい美味しいのだとしたら、無化調的な味わいのほうが自分の好みだし、結果的に無添加系の店は好きな店が多いというような語り方をしているひとがたまにいて、自分も完全にそれだなと思うけれど、そういう回りくどい言い方をしている人たちというのは、化学調味料とかうま味調味料を悪であるかのように思って、無添加であるべきだと語るようない人と一緒にされたくないから、そういう言い方をしているのだと思う。

(稲田俊輔のは探してみたらニュアンスが違う投稿しか見付けられず)

(稲田俊輔は旨味添加と味わい方の関係についても色々投稿してて面白い)

俺だって、うま味調味料を使わないほうが何を食べているのかよくわからなくなりにくいから自炊では使わないだけで、じゃこ天のようなうま味調味料の添加が前提というか、その味も含めてじゃこ天の味がイメージされるような食べ物も好きだし、そういうもののよさもわかっているつもりではいる。

ただ、俺にとっては、スーパーで売っている安いめんつゆは、素麺を一食食べ終わるまでに飽きてくるし、ベタつきも感じるし、乾物から出汁を取った味噌汁を作って常飲するようになってから、安い店の味噌汁とか、インスタントの汁物で成分にアミノ酸とか酵母エキスとか書いてあるものは、どうしても味がきつく感じるようになったし、昆布を使うのもうま味調味料を使うのもほとんど同じだというのはどうにも疑わしいなと感じてきた。

少なくても、俺のようなうま味調味料や甘みを添加しない自炊の味に慣れてしまっている人間からすると、乾物から出汁を取って料理した場合に料理に含まれる旨味と比べて、市販の大衆向けの食品は、違和感があるくらいに、あまりにも多量のうま味調味料が添加されているようには感じる。

とはいえ、俺は味の素とかハイミーを買ったことがないし、料理に使ったこともないから、味の素の味自体をよくわかっていないのだとは思う。

ほんだしとか、めんつゆとか、ガラスープとか、コンソメのキューブとか、市販の各種ソースとか、日本のマヨネーズとか、そういうものにうま味調味料が添加されているとして、添加されていないものを使ったり、自分で作ったりしたときの味の差異を、うま味調味料分の違いとしてイメージしているだけだから、俺のイメージはもしかするとそれなりにずれているのかもしれない。

ともかく、俺は二十代の後半くらいから、いわゆる無化調的な味わいに慣れていって、そのうえで、美林華飯店という、無化調的な味わいであるからこそ、あまりにも食べていて幸福感の強い店と巡り会えたのだけれど、堀江貴文は、俺にとってのそういう店をお気に入りだとしていつつも、無化調的な味わいならではの素晴らしさというのには興味がなさそうに見える。

少し前のホリエモンとリュウジとの動画の中でも、旨味がなければ美味しくないし、とにかく料理は科学だから、美味しく感じる要素を美味しく感じるまで加えれば料理は美味しくなるというような言い方をしていたし、旨味が多すぎる場合の味わいの変質について語って、そこもわかったうえで喋っているというポーズを取っておく気はなさそうだった。

美林華飯店というのは、ザーサイなんかはうま味調味料が添加されている感じがするものを使っているし、無化調であることにこだわってはいないのだろうけれど、うま味調味料を添加していないからこその料理の味の広がっていき方というのを大事にしている店なのだと思う。

食べ物を口にいれているときの体感として、口の中でいくつもの風味がそれぞれにふくらんだり収まっていったりしている味覚空間みたいなものがあるとして、うま味調味料がたくさん添加されていると、いろんな風味が立体感を持ってばらばらに浮かんでいたはずのその空間が、まったりとした感じに隙間が埋められてしまった感じになるように感じる。

ばらばらなものが埋まる感じなのだし、それはまとまりとして感じられるし、口の中の適度な重みとボリューム感にもなるのだろう。

味覚空間というのはよくわからない表現なのだろうけれど、たとえば、草しか入っていない汁と、出汁のきいた汁に草が加わっているものとで比べれば、風味が口の中で響いている位置の違いというのもイメージできるのではないかと思う。

草しか入っていないと、草の風味が上部に浮いているその下にほとんど風味を感じられなくて、塩気がきいていても草の汁にしか感じないし、そこに草的ではない風味のする他の野菜を加えていくと、丸い風味やコクみたいなものが草の風味の周辺を包んで料理的になってくる。

けれど、それでも味覚空間のボトムあたりにボリュームの希薄さは感じられて、そうしたときに、出汁とか旨味的なものを加えると、そこが埋まって、より全てがしっかり満たされている感じのする味わいになってくる。

味覚の働き方には個人差が大きいらしくて、それも成長過程で変化していったりするし、食べ物の好き嫌いも、本人の好みとか慣れという以上に、その時点での味覚の働き方によってどうしても心地よく感じられなかったりするせいでそうなっている場合が多いようだけれど、少なくても、俺の味の感じ方の中では、旨味というのはそういう感じられ方をするものだった。

旨味というのはそれ単体で美味しく感じられるものではなく、他の味と合わさったときに、食べているもの全体を美味しく感じさせるような効果を持つものと説明されていることが多いけれど、俺にはどうしてもただ美味しくなるだけには感じられなくて、隙間が埋まっていくとか、風味がひとまとまりにっていくというような効果も持っているように感じられるのだ。

旨味的なものを加えるにしても、乾物から出汁を取るのと、ほんだしとかガラスープのようなうま味調味料を加えるのとでは、味覚空間への影響はかなり違っている。

ほんだしとかの場合は、うま味調味料だけの問題ではなく、甘みやその他添加物の問題もあるのだろうけれど、そういうものを出汁感をしっかり感じるくらいに加えたときには、味覚空間は一気に透明感を失ってしまう。

添加前には、いろんな風味がばらばらにしていて、その重なり合いを立体的に奥行きを持って感じられていたものが、一気にひとかたまりのずっしりとしたまとまりのように感じられるようになるのだ。

どれくらい風味の奥行きを感じにくくして、まとまりがありすぎる味の感じられ方になってしまうかは添加量にもよるのだろう。

たとえば、デパ地下で茅乃舎が試食でだし汁を飲ませてくれるけれど、あの試食のだし汁でも、乾物で出汁を取った場合の風味の感じられ方と比べて、はっきりとベタついて風味の奥行きを感じにくくなっているのを感じられるし、よく試食ですら旨味が不自然なまでに高められているものを、無添加だとして試食させられるなと呆れてしまう。

ベタつかずに風味を奥行きを持って感じられるかどうかというのはとても大きな違いで、美林華飯店のエビのカボチャソースの味の仕方にしたって、うま味調味料で海老の味をさらにずっしりとしたものに感じられるようにして、もうちょっと塩気も甘みも強くして、強烈に美味しい味がするようにしていたのなら、あんなに衝撃を受けるほどにかぼちゃと衣とエビの風味の混ざり合いと、それがきれいに消えていって、また次のひとくちを早く食べたくなるあの感じにはならないのだ。

もちろん、それは俺の好みとして、旨味や甘味を添加して味を強くしたものは好きじゃなくて、あっさりとした味わいの中で風味の軽やかさを感じられるもののほうが美味しく感じられるということではないのだ。

三ノ宮におじいちゃんが短い営業時間でやっている、昔っぽい味の寿司屋があって、とても美味しいのだけれど、たとえば海老のにぎりなんかだと、しっかりした海老にうま味調味料がきいているずっしりとした美味しさの寿司が出てきて、それに合わせてどこにでもあるようなアル添の日本酒をぐいぐい飲んでいるのは強烈に心地よくて、夢中で食べていたりするし、そういう味わいがよくないものだと思っているわけではないのだ。

そこの寿司屋だと、穴子も名物のようだけれど、立派な穴子に、穴子の風味がしっかりしているから釣り合っているけれどちょっと甘すぎるかなというくらいの、旨味も強めたタレの握りにしたって、やっぱり普通の日本酒と合わせていると、本当に美味しいなと思うし、甘味と旨味をずっしりとさせたものだって、とても美味しいと思っているのだ。

いろんな美味しく感じられ方があって、そこの寿司屋なんかは、普段スーパーでパックの寿司をよく食べているひとが、パック寿司を食べる感覚のまま食べて、めちゃくちゃ美味しいと感激できるような、そういう種類の美味しさなのだろう。

美林華飯店の昼飯というのは、スーパーの惣菜の中華料理を好んで食べている人が同じ感覚で食べたとすると、パンチが弱いように感じつつ、普通には美味しいかなとか、そんなふうに感じる味でもあって、しっかり味わわないとその美味しさを存分に楽しめないということでは、かなり方向性の違う美味しさをしているということなのだ。

美林華飯店の料理だって、旨味が弱いというわけではなかった。
炒め物なんかは、料理に加えるスープの感じをたっぷり感じられていたし、旨味が足りていなくて、肉の匂いや野菜の匂いが剥き出しになった感じにはなっていなくて、柔らかな旨味につつまれて、弱めの塩味でもご飯をどんどん食べられたし、そのうえで具材やソースの風味がまとまり過ぎていなくて、一口ごとに噛んだ野菜や肉の風味が強く浮き上がってソースと混ざるのが心地よかった。

美林華飯店の汎用的に料理に使うスープというのは、ただ鳥と香味野菜からとったというだけではなく、何かもうちょっと味がきつくなっていかないための工夫がされているものだったのかもしれない。

いろんな中華料理屋で食べていて、あっさり味の店も含めても、スープの風味が美林華飯店ほど柔らかな感触がする店は珍しかったのだと思う。

昔は自炊でユウキ食品のガラスープの顆粒を使って炒めをちょくちょく作っていたけれど、ランチの定食が一〇〇〇円とかそれを超えるくらいの店でも、炒め物の中でのスープ味の感じとしては、顆粒のガラスープに近いような感じ方になる店はむしろ多いように思う。

それはスープ味の層をどうにも感じてしまうという感じなのだけれど、美林華飯店の場合、シンプルなスープと塩味の野菜炒めだとスープの味の全体の輪郭を感じられるけれど、他の調味料と混ざっているときには、スープは完全に調味料と溶け合ってしまって、ふんわりとしたスープ感くらいのものとしか感じなくなっていた。

美林華飯店の場合、味の濃そうなものほど、味を濃く感じなかったのだけれど、それはそういうところからきていたのかもしれない。

実際、美林華飯店のランチの食べ物の中で一番塩気を感じるのは、塩とスープだけの料理になっていて、シンプルな野菜炒めにしてもそうだし、卵と牛肉の炒め物とか、卵とエビの炒め物なんかでも、塩気はギリギリまで弱くされていた。

卵と牛肉の炒め物

旨味は全体をひとまとめにしてしまう効果があると書いたけれど、ひとまとめになることで、尖った部分も含めて丸くしてくれるという効果もあって、一般的に旨味によって塩カドを取ると言われているのはそういうことなのだと思う。

旨味と甘味がたっぷりしていれば、塩気は勝手に丸くなるのだけれど、美林華飯店のスープは塩気を丸くさせる効果をあまり強く持っていないものだったから、塩だけで味付けするときには、塩のカドがたってしまわないように、ぎりぎりまで塩が減らされていたということなのだろう。

甘みにしても、美林華飯店は甘みのある料理も、重たく感じるほどの甘さになっていることがなかったけれど、それはスープとの兼ね合いでそうなっていたことなのだろう。

昼の定食で出てくるものを考えても、甘みのある料理はそれなりに多いけれど、ほんのりと柔らかく甘みがあるというくらいのものが多くて、中国醤油の甘みが加わっている料理にしても、甘みはかなり控えめだった。

和食の店だと、美林華飯店と同価格帯くらいの昼の定食でも、肉じゃがとか煮魚とか、日本らしいの甘辛味の煮物は、食べ進めていると甘さが重たいなと感じてくることがよくあるけれど、美林華飯店では、獅子頭とか甘みのある煮物系も含めて、そんなふうに甘みが口の中に余ってくる感覚になってきたことはなかった。

青椒肉絲や麻婆茄子のような、店によってはけっこう甘みを加えて味をまとめているような料理も、美林華飯店では甘みが添加されていなかったように思うけれど、舌に乗っかってくる甘みを感じないというだけで、ふんわりとした甘みに近いような風味の膨らみがあったから、素っ気なかったり、塩味ばかり感じてしょっぱく感じることはなかった。

そんなふうにいい具合にふんわりとさせてくれるようなスープだったから、甘くなくてもいい料理なら、甘みを足さなくてもすんなり満足できる味になって、そして、それによって旨味と甘味を加えすぎていないからこその、まとまりが出すぎていない、具材と調味料のそれぞれの味をしっかりと感じられる味わいになっていたのだろう。

美味しさの最適解みたいなものはずっと追い求められてきて、そういう最適解的な味わいのあり方がどこまでも広く普及し続けてきたのだろう。

そういう方向性を、美味しさの科学みたいなものが後を追うようにして理論的に解明していって、最適解的な美味しさは、本当に人間にとっての最適なものであるということになってきているのだろう。

俺は母親が栄養短大で、卒業後にその栄養短大で数年講師をしていたようなひとだったし、俺が実家で生活していて、たまに料理をやらせてもらっていたときに、料理は科学だと言っていたり、油と旨味があると美味しく感じるものだとか、そういうことを教えてくれていたりしたし、むしろ俺にとっては料理は最初からそういうものではあった。

そして、実家を出て、自炊するようになっても、当たり前のようにほんだしとか鶏ガラスープを使って、物足りなくないように味付けをすることで、一緒に住んでいる友達や付き合っていた彼女に美味しい美味しいと言って食べてもらってきた。

俺は最初から最適解的なものに慣れ親しんでいたわけで、ずっとそのままでもおかしくなかったはずなのだ。

大人になって、いろいろと自分で店を選んで食べてみて、特別美味しい店と、それほどでもないお店とがあって、自分はどういう味のものが好きなんだろうと思いながら、いろいろともやもやしていたところもなくはなかったにしても、二十代後半とかは、むしろどぎついアジア料理や四川料理を好んで食べていたし、一口目からがつんと美味しくて、刺激的な味わいを楽しませてもらえる店ばかりを好む人になっていってもおかしくないくらいだったのだろう。

美味しいスープを用意して、それで作った料理に、必要な分だけの塩気や甘みを加えるようにした、風味豊かなのに味がきつくなくて、食べているものの味が全部よくわかるような感覚になる味わいの店にたまたま通うようになって、そういう味わいこそ自分にとって一番心地良いものなのかもしれないと思うようになったけれど、それは本当にたまたまのことだったのだ。

美林華飯店での食事は、食べれば食べるほど美味しくなるし、その味に飽きて、よりその味の細部をはっきり感じるようになるほどに美味しく感じられるようなものだと書いた。

飽きているとはそういうことで、飽きてから感じている味がそのものの味ということになるのだけれど、人間に飽きるのも同じで、飽きていない相手は目新しさが高揚感や緊張感になるから、相手と何をしていても楽しい気持ちになりやすいけれど、相手に慣れてしまうと、ちょっとしたことでは何も思わなくなって、その人のその人らしさも鼻につくようになってくる。

そして、相手に慣れてしまって、一緒にいるだけでは特に何も思わなくなってしまっているのに、一緒にいるとちょっとしたことで楽しくなれたり、何を話していたわけでもないのにいつのまにか話が盛り上がったりする人というのが、飽きても一緒にいて心地よい人なのだろうし、それこそが本当に自分にとって心地よい人だったりするというようにも書いた。

別に悪意があってこう書くわけではないけれど、リュウジのバスレシピの動画を見ていると、リュウジのレシピというのは、動画でのレシピの伝え方の通りのものなのだなと思う。

何も考えずに見ていても楽しくて、刺激的で、そういうのでいいんだよと思っていい気になって見ていられるように、ひたすらおおげさなことを言って、できるかぎりふざけてくれているわけで、それが心地良い人がたくさんいるからこそ、あの視聴者数なのだろうと思う。

俺は誰かが何かをしているのを見ているとき、そのひとにあれこれふざけてもらいたいと思わないし、おおげさなことはできるかぎり言わないでいてくれたほうが楽にその人を見ていられる人なのだ。

面白いことをやろうとしているひとが、面白いことをやろうとしている中で、おおげさだったりわざとらしいやり方を駆使しているのはすんなり楽しめるのだ。

けれど、面白いことを言い合えることをみんなが望んでいるわけでもない状況の中で頑張ってふざけようとしてきたり、いちいちおおげさな言い方をされると、そんなことしなくていいから、今の自分の気分の顔のままで、今この場に感じていることで何か言ってくれればいいのにと思っていた。

当時そこまで自覚的にそう思っていたわけではなかったけれど、俺が大学で関西を出て東京に行ったのは、神戸だからマシではあったけれど、関西ではどういう状況であっても面白いことを言うべき状況だと思っている人が一定以上いて、面白いことを言ってもらいたいと思っていない人のほうが多い状況でも、ふざけたい人たちの状態に付き合わされることが多すぎるから、そうではない場所に行きたかったというのもあったんじゃないかと思う。

俺はもともと目の前の人が何をしたくてそんなふうにしているのか落ち着いて眺めていられるほうが心地いい気質だったのだろう。

そして、それは食べるときにも同じだったのだ。

無理に美味しくしようとしなくていいし、無理に刺激的にしなくてよくて、美味しい材料やスープや調味料を用意して、その材料の美味しさがどんなバランスで混ざり合っていくのが心地良いと思っているのか、作る人のイメージを伝えてもらうようにして食べられるときに、一番じっくりと食べているものの心地よさに浸っていることができて、それがどんな刺激的な料理を食べるよりも、自分に深い幸福感を与えてくれたのだ。

美林華飯店での昼飯の自分にとっての特別なのは、そんなふうに深い幸福感を与え続けてくれたことで、自分が本当に心から気を楽にして食事を楽しむときにどういうものに一番満たされるのかということを教えてもらったからなのだ。

おおげさではなく、無理に刺激的にしようとせず、すんなりと美味しいのに、食べれば食べるほど美味しいし、飽きてきて、あまりにも味をはっきり感じすぎて鼻につくようになってきて、ますます美味しくなってくるのが俺にとっての美林華飯店なのだろう。

うま味調味料を一口目からがツンと美味しく感じるくらい添加したときには、どうしたってそんなふうにうんざりするほど延々と美味しくて幸せすぎる食事体験にはならないのだ。

恋人にしろ、友達にしろ、音楽とか、作家とか、散歩道でもいいけれど、もうあまりにもそれがどんなふうなのかわかっていて、飽きてしまっているのに、飽きているからこそ、やっぱりこれが好きなんだよなと思えるものにこそ、一番深いところからの幸せを感じるような人が、そういう感覚になりたくて食事するのなら、スーパーの惣菜も、コンビニやファミレスの食べ物も、最適解的な味がつけられていてちゃんと美味しいからといって、味がつけられすぎていて、ずっと味に浸っていると何を食べているのかわからなくなってきたり、甘さや重さばかりが口の中で強まっていって、あまり味わいすぎないようにしないと気分よく食事できないようなものになっているように感じる。

俺の両親や弟はそうじゃないし、俺の友達のほとんどもそうじゃないけれど、そんなふうに感じている人は、世の中にはそれなりにいるんじゃないかと思う。

そういう人間のひとりとして、俺にとっての美林華飯店の特別さを書いてきたけれど、そういう人たちには、みんないくつも自分にとって特別な店だったり、自分で作っていつも幸せを感じられる料理があったりするのだろう。

みんながみんな、何を感じようとするわけでもなく口に入れても、一口目からしっかり美味しさを感じるような食べ物に対して、こういうのでいいんだよと思っているわけではないのだ。

たくさんふざけてくれなくても、あれこれ面白いことを言ってくれなくても、いかにもいい感じに振る舞ってくれなくても、その人が自分に向かってリラックスしてくれていて、自分と相手との間によい感情が行き来していれば、その時間のすべてが心地よいものになる。

そんなふうな気分で過ぎていく食事の時間があって、みんながもっとそういうものを求めて食事するようになれば、料理人も、自炊する人も、世の中の料理を作っている人たちは、もっといい気分で料理を楽しめるようになるんだろうになと思う。

もちろん、そんなふうには時代は変化しないのだろう。

けれど、麻布台ヒルズができてから初めて美林華飯店に行って、久しぶりに昼飯を食べさせてもらったけれど、美林華飯店の味は変わらないままで、いつまでも味わっていたい美味しさのままだった。

そういうお店を巡り会えて、そして、そのお店がまだ素晴らしいお店のままでいてくれて、本当にうれしいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?