続々・美林華飯店での昼飯の自分にとっての特別さ
美林華飯店で食べたものの中で、食べるたびにこれはすごいなと一番衝撃を受けていたのは、夜のメニューだけれど、海老のカボチャソースになるのだと思う。
海老マヨがマヨネーズではなくカボチャのソースになっている料理なのだけれど、カボチャソースは、かぼちゃ餡に近いような甘いものではなく、かといって、さっぱりした野菜ソースというわけでもなく、海老マヨが食べたい気分だったとしても物足りなさを感じることがないものだった。
美林華飯店の料理というのは、夜のメニューも含めて、いかにも凝っているとか、いかにも複雑だったり、いかにも刺激的だったりはしないと書いた。
どれを食べてもすんなりと美味しいのだけれど、その美味しさは、口に入れてすぐにガツンくる種類の美味しさではなかった。
けれど、海老のカボチャソースに関しては、口に入れてからどんどん美味しくなるまでがとても早くて、美林華飯店の中でも、じっくり味わおうとしなくてもその美味しさが充分にわかってしまうタイプの料理だった。
海老のカボチャソースは、口に入れると、野菜の甘さとカボチャの匂いが、衣の油の匂いと舌触りと一緒に一気に広がってきて、そこに噛みしめるほどに海老のコクのある味が混じり合っていくのだけれど、その風味が混じり合って釣り合っていくバランスがとてつもなく絶妙だった。
美味しいなと思ってもぐもぐしていると、野菜の柔らかさと軽やかさできれいに味が消えていくし、ソースの甘さもカボチャの範囲で収まっていくからまったく口に残らなくて、すごい美味しいものがすごくきれいに口から消えていくように感じられた。
美味しかったのに、口に味がまったく残らないことで、欠乏感が一気にくることになって、またすぐにさっきのすごい美味しい一口を食べたくなってしまっていた。
コースで出るときは、一人分は二個とか三個だったと思うけれど、真剣に味わって美味しさを捉えようとしていても、いつも全部食べ終わったときには、美味しかったのにうまく全体を捉えきれないまま通り過ぎていってしまったのが名残り惜しいような気持ちになっていた。
カボチャソースといっても、瓜的な爽やかな甘さが勢いよく広がる感じを持ってきたいからカボチャだったのだろうし、ほくほくした感じでも、ねっとりとした感じでもなく、むしろさらっとしていた。
品種的にほくほくするようなタイプのカボチャを使っていないということなのだろうけれど、カボチャの繊維を感じさせなくもないくらいにしてあって、カボチャらしさをしっかりと口に感じさせながらも、引っかからずにすぐに消えていって、風味だけがあとをひいて残っていくようになっていた。
海老自体がとても味が濃くて美味しいという感じではないのだ。
しっかり味の濃さのある海老ではあるけれど、海老自体の風味の細部を味わうような感じにはならなくて、あくまでカボチャソースと合わさることでより海老の風味をよいものに感じられるのが心地よいというバランスになっていた。
カボチャの爽やかな甘さが口の中にある状態で、エビの濃厚な味や、衣の油の美味しさが混じってくるのが心地いいという感じになっていたのは、ぎりぎり足りなくないくらいの塩気になっていたからなのだろう。
エビマヨのように甘味と旨味でまったりと重ためにまとめるのではなく、ソースとしては薄めの塩気によって、カボチャの軽やかな甘さと爽やかさが全体を包むようにしてあって、それによって、衣の油っけとスナック感も、海老の味や風味もくっきりと感じられているのだけれど、風味をくっきり感じてまったく薄く感じないし、しかも、濃いものを食べているはずなのにあっさりと口からきれいに消えていくようになっていた。
塩気や糖分や旨味でまとまりが出すぎてしまわないことが、あの風味の豊かさが切れ目なくつながっていく感じにつながっていたのだろうだけれど、口に入れた瞬間から美味しいのに、味わえば味わうほど風味の重なり合いのバランスがすごいという感覚が大きくなってくるというのは、本当にすごいバランスの料理だなと食べるたびに思っていた。
美林華飯店の名物料理は(中国飯店の料理長だった福永さんの店なので)黒酢酢豚とか上海蟹ということになっているのだろう。
たしかに、黒酢酢豚も美味しいし、上海蟹も剥いて出してくれるし、蒸した蟹以外の料理もどれも美味しかった。
俺だって、美林華の海老より、美林華の上海蟹のほうが、それ自体の味としてはより強く美味しさを感じていたのだと思う。
けれど、俺が美林華飯店の昼飯を延々と食べ続けて、毎回とても幸せな気持ちになっていた、俺にとっての美林華飯店の味わいの好きな感じということでいえば、その好きな感じの延長線上の味わいで、特別な料理としてこんなにも鮮烈な印象を与えてしまうこともできるのだという感動が、海老のカボチャソースにはあったのだ。
耳を澄ませるようにして、繊細に味わおうとしたときに、より美味しく感じられるというよりは、口に入れればすんなりとたっぷりとした風味のよさや美味しさが押し寄せるようになっていて、そのうえで、そのたっぷりとした味わいの中で、一つ一つの具材や調味料の風味がいい具合に重なり合っているのをじっくりと感じていられるというようなバランスになっているというのが、俺にとっての美林華飯店の美味しさなのだろう。
夜には十回は行っているかなというくらいだし、美林華飯店のメニューの大半を食べたわけではないけれど、それは昼でも夜でも何を食べてもそうだった。
けれど、そういうような、味がひとまとまりになりすぎていないというか、美味しいものが美味しいやりかたで混ぜ合わされていて、その混ざり合いのちょうどよさを、感じれば感じるほどに実感できるようになっているというのは、何によって実現されているものなのだろうと思う。
昼に炒め物を食べていてよく思っていたのは、他の多くの中華料理屋と比べると、食べているときの感じとして、口の中での油の感じられ方がけっこう違っているということだった。
(美林華飯店に毎日のように行っていた頃だと、その近辺の店では、新北海園とか華都飯店とか浅野とか香妃園とか陳麻婆豆腐とか郷味屋とかには何度か行っていたけれど、高級な店も多いし、油の感じ方というのは、その全部に当てはまるわけではなかった。
むしろ、その店全部にあてはまるということだと、美林華飯店のほうが食べているものの風味をはっきりと感じられて、食べ進むほど美味しく感じられるということになるのだろう。
油の感じられ方の話は、その一側面というくらいのこととして感じたことになる。)
美林華飯店は全体的に油がひかえめで食べやすい店ではあるのだと思う。
だからといって、美林華飯店にしたって、炒め物を食べていると、油がたっぷりとまとわりついたものを食べることになるし、だんだんと油自体を感じるようになってくる。
けれど、そうなってきても、美林華飯店の場合は、油が口の中で浮いてくることがなかったし、だから、炒め物をだんだんと油を少し落としながら食べて、食べ終わる頃には皿に油が溜まっているということがなかった。
食事の終盤で、油まみれの中に炒め物が少し残っているような状態になってくると、もう充分そういう油っこいものを食べて飽きてきてすらいるはずなのに、むしろ、もうご飯も最後だからと、スプーンなら油ごとすくってご飯にかけたり、箸の場合はできるだけ油をたっぷり付けてご飯にバウンドさせながら食べてしまっていた。
それはつまり、飽きている状態で、油まみれなご飯をもぐもぐしていたということだけれど、美林華飯店の場合、油が口の中で浮いた感じにぬるぬるすることはなくて、油のぶんだけまろやかでねっとりと味が伸びる感じがする美味しいソースになっているようにしか感じなかったのだ。
だからこそ、これで食べ終わりだからいいだろうと、せっせと油が多い状態ならではの美林華飯店の美味しさを堪能しようと、油まで残さず食べてしまっていたのだろう。
それは美林華飯店が料理に使う油が少なめだからそうなっていたというだけではないのだと思う。
油が美味しいメニューというか、油の美味しさが風味の組み合わせの軸にあるような料理では、ちゃんと油こそが美味し差の中心であるように感じられるくらいに油をたっぷりと味わわせてくれていた。
回鍋肉なんかだと、オレンジ色の油がたっぷりとまとわりついていたけれど、その油は、やわらかい香ばしさのなかで、しっかりとにんにくの風味が充満していて、とても美味しかったし、油多めでも、やっぱり最後まで油まみれにしてご飯を食べていた。
美林華飯店の回鍋肉は、茹で肉を炒めたもので、味噌味でもなかったけれど、葉ニンニクではなく、キャベツとピーマンとが合わされたものだった。
野菜が日式で、四川料理らしい刺激という点ではかなり抑えめで、かといって、油と唐辛子とにんにくのコクで豚肉の脂を美味しく食べるということでは、それを存分に楽しめるような回鍋肉になっていた。
ご飯もしっかり進むし、にんにくをたっぷりと感じられる味わいだったけれど、かといって、やっぱり美林華飯店の回鍋肉という感じで、ひとまとまりに回鍋肉味になってしまわず、豚肉自体の風味の全体を感じられつつ、そこににんにくのいい感じと、軽く唐辛子の香りをまとった油のいい感じが重なり合って、豚肉がそれによってどんなふうに美味しくなっているのかを感じようとするほどに、より美味しく感じられるようになっていたし、それが食べ終わるまでずっと続いていた。
充分ご飯は進むくらいだけれど、ご飯なしでも食べ進められるくらいの塩気で、かといって、じっくり味わいながらたっぷりの回鍋肉を食べていると、どうしたってご飯はお代わりするしかなくて、いつもお腹いっぱいになりながら、今週のうちにもう一回回鍋肉を食べておきたいなと思いながらオフィスに戻っていた。
逆に、美林華飯店では、麻婆豆腐は油が少ないタイプでしか出たことがなかった気がするけれど、油の美味しさをたっぷりと感じるソースというより、油で煮るというような、四川料理の麻婆豆腐的なバランスというのは、美林華飯店的じゃないということで、そうしていたことだったのだろう。
美林華飯店的な口の中での味の仕方を思い浮かべたときに、四川料理的な油の感じ方では、どうしてもああはならないんだろうと思う。
俺は強烈な麻辣味だったり、かなり分厚い油の膜が覆っている赤い料理とか、そういう四川料理も好きだったし、美林華飯店で食べるようになる前は中華料理の中でも特に四川料理の店によく行っていた。
六本木の職場になる前は四谷三丁目が職場だったけれど、四川料理の店がいくつかあって、峨眉山という麻婆豆腐が有名な店もあって、昼飯でもちょくちょく行っていた。
振り返って、美林華飯店で食べていたときと、満足感の種類みたいなものを比べると、同じようにご飯をお代わりするにしても、四川料理らしい感じのバランスのおかずでがつがつご飯を食べているときは、どうしてもご飯自体を味わうという感覚が希薄だったように思う。
強烈なおかずの味の強さがあって、それを口の中に感じたままでご飯をもぐもぐとしている感じで、それはそれでご飯を美味しく感じられる食べ方なのだろうけれど、おかずのおかげでよりご飯を美味しく感じるという感じは弱かったのかなと思う。
ただ、峨眉山という店の場合、昼の白米で食べさせる米がかなりぱさつきがあるような米で、大半の客が麻婆豆腐か麻婆焼きそばを食べていたから問題なかったのだろうけれど、他の炒め物とか、たまに昼でも出る名物のよだれ鶏でご飯を食べるときには、ご飯にバウンドさせて、油や汁をつけていかないと、美味しく食べ進めにくいくらいの感じだった。
俺は大人になる前からタイ米がとても好きだったし、タイ料理にしろ、ベトナム料理とかインド料理で、おかずの汁がかかることが前提の米の食べ方が大好きだったし、むしろ中華料理でご飯を食べるというのもそういうものだろうと思っていたから、その店がそういう米であることにはなんとも思っていなかったけれど、きっと多くの人が、たまには麻婆豆腐以外のものを頼もうかと試してみて、米のまずい店だなと思ったんだろうなと思う。
そういう意味では、美林華飯店は、日本的なふっくらもっちりしたご飯を前提にしたうえで、ご飯をご飯自体として美味しく食べられるくらいに、おかずの味が強すぎたり、油で全体を覆い尽くしたりしないようなバランスにしていたということだったのかもしれない。
かといって、美林華飯店の白米というのは、それ自体としてとても美味しいという感じの米ではなかった。
おかずが味が強すぎず、後味もきれいに切れていくから、ご飯自体の味もいつもしっかり味わえてしまったせいもあって、ちょくちょくそう感じていたのだけれど、美林華飯店の米というのは、いかにも多くの日本人が好みそうなコクや甘みの強い米ではなかった。
思い返せるかぎりずっとそうだったように思うし、米自体にコクや粘りがありすぎないものを選んでいたのだろう。
炊き加減はぱさっとさせずにふっくらさせていたけれど、もちっとした感じが強くなくて、柔らかめにするためか、ちょっと水っぽい感じがしていたし、俺はこのおかずと一緒に食べるご飯として、むしろコシヒカリ的に重すぎないこれくらいの米だからこそいいと思っていたけれど、まわりで食べているそれなりに多くの人が、米がもうちょっと美味しければいいのになと思っているんだろうと思っていた。
四谷三丁目の峨眉山は違ったけれど、今どきな感じで麻婆豆腐が売りの店なんかだと、かなりコクの強い白飯を出してきたりすることが多いけれど、確かに、麻辣味だけではなく甘味も強いような日本人好みな濃ゆい麻婆豆腐であれば、そういう味の濃い米のほうが釣り合いが取れるというのはあるのだろう。
峨眉山の麻婆豆腐は、甘みがなかった気がするし、そのうえで、そこまで油の膜が厚いタイプではなかったけれど、それでもそれなりに油を食べる料理という感じだから、米をぱさつきがあるくらいのものにして、油と一緒でやっと美味しいくらいのバランスであることで、食べ疲れにくくしていたというのもあったのだろう。
そういう意味では、美林華飯店というのは、日本でのキャリアの長い人の店というのはあるにせよ、本格的な中華料理屋にしては、日本人のご飯の好みというか、ご飯自体の味わいを中心に食事をしたい人にそれなりに寄り添ったバランスの味付けをしてくれている店ということになるのかもしれない。
そして、そうだとしても、美林華飯店にとしては、日本のご飯はご飯自体が美味しすぎるし、日本人はおかずをご飯のお供的に扱いたがるけれど、そこには付き合い切らないという判断があったということなのだろう。
日本のご飯の食べ方というのは、ご飯が主食で、ご飯をおいしく食べるためにおかずが調整されているというのが基本形で、だからこそ、ご飯自体がよりよいしければそれに越したことがないという価値観でずっとやってきたのだろう。
その結果として、コシヒカリ的なものが一番美味しく感じられる米として広がっていって、そして、コシヒカリのような濃い米が一般的になっていったことによって、それに釣り合わせるように、和食的なおかずであっても、かなり甘みも旨味も強くてコクも強くなるようにしたものが多くなってきたのだろう。
俺だって、米自体が美味しい食事は素晴らしいものだと思うし、味の濃い米でコロッケとかとんかつを甘みのあるソースで食べたりする気持ちよさもよくわかっているつもりだし、それとは逆に、米自体が美味しくてもったいないからと、味噌汁とか漬物とか釜揚げしらすとかだけで、お米が美味しいなと頭の中で何度も思いながら食べるのも素晴らしい食事だと思っている。
けれど、美林華飯店でご飯をがつがつ食べているのは、そのどちらとも違う満足感があったように思う。
油や汁をまとわせなくても食べられる、ぱさつかず柔らかめに炊かれた米で、ご飯をがっつくことを中心にした食べ方をしながら、油が少なめながらもしっかりと中華料理的な味わいの豊かさを満喫できるおかずを食べられるのだ。
日本的なご飯が進むための味付けではなく、いかにもアジア料理的な快感で満ちていながらも、米自体も、米の香りとか食感だけではなく、米自体の味の全体を味わっていられるというのは、なかなか珍しいバランスなのだろう。
だからこそ、ご飯を食べるのが好きな俺にとって、美林華飯店での、ご飯をお代わりしながら食べる昼飯が突出して幸福感の強い食事体験であり続けているというのもあったのだろうなと思う。
ただ、正直なところ、そうだったとしても、美林華飯店のランチの米は、もう少し張りがあって、米的な風味の強いものだとよいのになとは思っていた。
とはいえ、それは俺が美味しい米ばかり食べすぎてきたということだったり、美林華飯店が美味しすぎて、味わおうとしすぎているから、米の匂いや食感も感じすぎてしまっているから、美味しいとは思いつつ、どうしても、もうちょっとどうだともっといいのになということが頭をよぎってしまうというだけのことなのだと思う。
実際、美林華の米がタイ米的なものだったとして、それでも遜色なく美味しかっただろうけれど、そっちのほうが美味しいという感じにはならないように思うし、かといって、ある日美林華が魚沼産コシヒカリみたいなポスターを貼り出して、ご飯の味がもち米的に寄ったとして、俺はもちもちしすぎる米をもぐもぐしながら、むしろ前のほうがよかったなと思っていたのだと思う。
ちょうどいいくらいの米を出してくれているのにそんなことを思ってしまうくらい、夢中になって味わっていたということだし、それほどまでに、美林華飯店でご飯をお代わりしながらおかずを食べ続けるのは心地がいいことだっということなのだろう。
そんなふうに、油分とかご飯との関係からしても、手頃な値段の和食系の店だと甘味や旨味が強すぎて美味しい店でも、食べ終わる頃には口が食べ疲れてしまっていた自分にとって、美林華飯店の料理というのは、自分にとってぴったりとくるものだったのだなと思う。
他にも、料理の味の中でのスープの感じられ方とか、旨味の添加のあり方なんかでも、美林華飯店は自分にとってぴったりの店だったのだと思う。
そういうことについてもまた書いてみたい。
(続く)
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