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本当の自分なんてないと思っているのはその人だけ

本当の自分なんてないと思っているのはその人だけ。

その人を見ている人からすれば、その人はいつでも、誰といても、携帯電話を操作していたり、パソコンの画面を見つめているときですら、その人以外の何者にも見えることはない。
いつだってその人は、その人らしさの範囲でしか動くことも表情を作ることもない肉体でしかないのだから、それは当然のことだろう。
自分の身体感覚を自分だと思わずに、自分の思考内容や行動選択を自分だと思っているような人が、自分を見失って空回りを繰り返したあとで、本当の自分なんてないという言説を読んで、そうなのかもしれないと思っているだけなのだと思う。

みんな恐ろしいまでに一貫したその人らしさを生きているようにしか見えないのだし、自分なんてその一貫した肉体性一つしかないのだ。
一つしかないものに、本当だとか本当じゃないだとか考えてしまうというのは、どういう世界の見え方をしていることによってそうなるものなのだろうと思う。

たしかに、ヒステリー状態の人間は、いつものその人の感情の動き方で動いていないということで、その人らしさがかなり薄まった、みんながヒステリーのときと似たような存在になっているとはいえるのだろう。
けれど、ヒステリー的になったときに自分らしくない行動をしてしまいがちで、それで自分が自分でわからなくなって悩むとか、そんな人はいるのだろうか。
ヒステリー状態というのは、人間的というよりボット的に行動してしまっている状態ということでもあるのだろうけれど、ボットみたいな存在になっている時間や回数が多いから、本当の自分がわからなくなるということなのだろうか。
ボット状態のときの自分を自分だと思っているのなら、たしかにその場その場でボットとして振る舞っていて、自分の思考内容を自分だと思っていると、自分はばらばらになっているように感じるのだろう。

自分の人体感覚や感情の動きを自分で感じながら生きていれば、自分の身体性や記憶や感受性のどうしようもないほどの一貫性にうんざりしながら生きていくしかないのだ。
そういうものをほとんど感じようとせず、その場その場でボット的に生きながら、不快なことを避けて楽しいことをできていればいい状態だというルールに則って、楽しいことが多くなるように立ち回っているというのが生きていることのほとんどすべてになっているから、ボットとして体験するあれこれが自分の中でちぐはぐになって、本当の自分なんてないとか考えたくなるのだろう。

けれど、どういう場所でどういうボットとして振る舞っているときも、他人からすると、いつものその人がそれぞれの状況で振る舞っているとしか思われていないのだ。
本当の自分なんてないと思いたがる人はいつでもどこにでもいるのだろうけれど、どうしたって、本当の自分なんてないと思っているのはその人だけなのだ。

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