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初伝認定コースについて

かたちというものには、こころが現れる。
かたちは訓練しないと生まれてこないと思うかもしれないけれど、そんなことはない。
こころが動けば、なんらかの「かたち」で必ずどこかに現れる。

されど、心はうつろいやすく、止めどない。
メンタルが叫ばれる時代に
こころを調えることは、同時に身体感覚を取り戻すというテーマと不可分であり、逆のアプローチが可能であるということも意味している。

かたちの型により、こころをコントロールしようとした伝統文化の先人たちの妙を、明らかにしたいと思う。

かたちと、こころ。

つい先日も
日本橋三越で開催されていた「永楽善五郎襲名展」で、永楽さんの新作の一つひとつを見ながら、、
そこに佇む「かたち」に、自らの心が共鳴しているのを感じて、ちょっと久しぶりの激震にびっくりした。
かたちに対して、見る側の心が知らず知らずに動かされていく。

日本橋三越HPより

作者のこころの動きの果てに、一時的に止まった
茶碗という「かたち」に
奥にある風景や世界が、無限の可能性をもって
縦横無尽に広がっていく感覚。

標釉松画茶碗

こころは自在だと、改めて強くそう思った。ご説明下さるご本人の人柄にも、こころが動く。

そんな風には感じていても
考えたことない人がいたとして

たとえば
こんな質問をしてみたい。
「この世でいちばん美しい姿形と思うのは、なんですか。」

半跏思惟像
阿弥陀様と仏像シリーズを連想する人もいる。
印象派のひかり
ベネチアの街や南洋諸島の砂浜という人もいるかもしれない。
穴熊の赤ちゃんや、馬の走る姿と答える人もいる。
茅葺きに吹く風や、日本庭園の石群に感じるかもしれない。

されど、どこかに情報が紛れ込んでいて
もっと深いところで「美」を感じているかもしれない。

これはあくまで僕個人の感覚だけれど
決定的な「かたち」は
他に置いても一つしかないのではないかと思う。

それは、母親がわが子をやわらかな眼差しをもって
大事に抱く、その姿ではないだろうか。

第三者が感じる「美」には、
果たして何があるのか。
そのことが分かると、
身体所作への理解は格段に深まっていく。

初伝では、こんな感じで「命」とは何か。
生かされているとは良く言うけれど、それはどう言うことなんだろうか。
ということについても、身体感覚を持って臆せずに触れていく。

そこで、まず初めて身体所作を熟慮するとき
もっとも必要なことが3つある。

①なぜ自分は身体感覚を取り戻したいのか。
②いまの自分の状態はどうか。
③身体所作は、どこから始めるのがいいのか。


初伝コースでは、一念一念という今の心の状態と
身体とを照らし合わせながら、、
正しい呼吸を通して、歩くから摺り足へ、踵や土踏まずを大地と感応させていく。
内外そこにある「気」を、受け取れる身体に変容させていく。

そういう自分という土台の上に
はじめて
「かたち」は見る側の心と感応する方へ開かれていく。美しい所作となって、人の心に深い感動を与えるのではないかと思う。

そして
初伝コースを経ていく先で
いつの間にか自然とお点前がしたくなり
お抹茶を点てたくなり、点てることが調うことに
ガッチリつながっている心の状態ができてしまっている。

えーー?えっ?と思うかもしれないけど
習いつつ見てこそ習え習わずに、良し悪し言うは愚かなりけりと、千利休という人も言っているので
そこは、ぜひ直感で「身体所作茶道の門」を叩いてみてもらえたらと思います。

初心忘れるべからず。
どなたでもスタートラインはいつも一緒です。
ご興味あれば、ご遠慮なくお気軽に、お問合せください。
zoomなどで個別ご説明もしております。

意なく
必なく
固なく
我なし

孔子とその高弟たち
禮聞來學,不聞往教

詳細は、下記URLよりご参照ください。






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