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”分かりやすい”は正義か悪か

 先週から、私は週1でレンタルビデオ屋さんに通うようになった。大きな理由は、”身体を動かしたい”と思えるようになったからである。先週借りたのは、多くは幼児が観る映画1本と、賞に載るような映画作品を1本。今週もタイトルは違えど、大体のメニューは同じである。

 子どもの頃、物語はハッピーエンドが基本だと思っていた。だが、いつの日からかハッピーエンドではない結末が出てきて、子どもながらその作品は革新的だと感じた。昔から私は比喩が好きで、「誰々が亡くなった」というのもストレートに登場人物に言わせるよりも、暗に示す演出の方が好きだった。世間の”言わなきゃ何言ってるか分かんない”論争が暴発していた時代は、何をロマンのないと呆れたものである。

 しかし、時代はまた変わってきたなとここ最近思う。今は、完全解決に届かずに締めを迎える映画、小説、ドラマどれも多い気がする。事件が発生し犯人は視聴者側としては分かったが、逮捕されずに終わるもの、主人公が悪に引き込まれて終わるもの、ここ5年の作品でハッピーエンドで終える作品はどのくらいあるだろう。勿論、主人公や共にいる者らが、前を向いてエンドを迎えるものは何本もあるだろう。だが、主人公の親が死んだ、でも前を向いて生きていく。ストーリーの最初から追い求めていたものは結果的に手にできなかった、でも前を向いて生きていく。何かを失ったり落としたり、を結末に持ってくる”良いエンド”は、いくらでもあると思う。だが、パターンはこれだけではない。

 お客にモヤモヤを与えてエンドになる作品が昔に比べて多くなった。そこに比較的分かりやすく作者の想いや伝えたいことを埋め込んであるなら「分かりやすい」作品だが、それすらも隠し置かずして創られたならば、それは社会的には「難しい」作品になる。だが、これがある程度名の高いところで造られれば、「難しい」=簡単には生れない、即ち”素晴らしいもの”として取り上げられる常連になる。ここから、現在の日本では簡単には分からないものを好しとする文化があるということを把握できる。

 だが、最近聞いた話では教育界では「答え」が分かりやすく書いてある作品を好しとする動きがあるという。想像力を養うより、文法、正しい知識といった、社会人としての常識を叩き込む方向へハンドルをきろうとしているらしい。限りある時間を想像力か一般常識の学習かと天秤にかけた結果は人それぞれだろう。だが、ここで一つ言えるのは、それは現代の日本国民が”善し”としている文化から、未来の子ども達は引き離すことに等しいという見方が出来ることだ。”現代の若者は...”、ジェネレーションギャップだなんだと騒いでマスメディアが大きく取り上げることが度々あるが、一度否定する前に自身のこれまでの振りを見直してみてほしい。目の前が奇々怪々な行動をとっているかもしれないが、果たして彼らは意味なくそれを起こしているのだろうか。何か、人為的な影響があるのではなかろうか。自分たちの時代に当たり前にあったものを取り上げ、それを知らない世界で生きる彼らに対してただ笑う立場に立つのは、失礼極まりない行動だと思う。だから、今目にみえる光景は一体何が起きているのか、なぜそのような形で始まったのだろうか、それを小さくでもいいから考察一つでもして、リアクションをとるべきだ。

 この国、地域、社会どうこうに関わらず、私達は「進化」を絶えず考えていかなければならない。なので変化を試みること自体には異論はないが、目標が「これからの効率化」が絡んでいく以上は、生き急がずにひとつ立ち止まる習慣を、現代人に植え付けていくところから始めるのが理想的だと考えている。

頂いたサポートにお応えできるよう、身を引き締める材料にしたいと考えています。宜しくお願い致します。