この本は何のために書かれたのか - 書籍「人生の意味のつくり方」 試し読み版 1
シロイブックスより刊行予定の書籍「人生の意味のつくり方:幸せと自己肯定感のためのレッスン」の試し読み版です。書籍の正式リリースの前に、この試し読み版としていくつかのページを順次公開していくつもりです。
このページでは、本書の「はじめに」の章の全文を公開しています。
これから考えようとしていること
探し物はどこにあるのか
本書「人生の意味のつくり方:幸せと自己肯定感のためのレッスン」を手に取っていただき、ありがとうございます。このようなタイトルの本を手にしたということは、あなたは今まさに、それを探している人だということでしょう。そこまで切実な感情からではなく、気まぐれに見てみただけだという人もいるかもしれませんが、少なくとも何かしら、心に引っかかるものがあったのだと想像します。いずれにせよ、あなたの訪問を歓迎します。
本書で扱うのは、人生の意味という非常に大きなテーマです。そして本書のタイトルは、人生の意味の「探し方」でも「見つけ方」でもなく「つくり方」となっていますね。最初にお断りしておくと、この本は「これこそが人生の意味です」という答えを主張するものではありません。
執筆を生業としている私が本を書くとき、いつも意識しているのは「嘘を書かない」という点です。本書の前半で詳しく論じていくとおり、人生の意味とは言葉で定義されるものではないし、他の誰かが与えてくれるものでもありません。その人にとっての意味の感覚はその人に固有のものなので、十年後の果実の収穫を目指して小さな苗木を立派な木に育てていくように、自分の力で自分自身の中に育てるということが必要になってきます。本書のタイトルに掲げた「つくり方」という言葉は、そのような意味を込めたものです。
そしてこれは、世間でよく耳にするような「自分らしく生きよう」といったふわっとしたメッセージとも異なります。これから始めようとしている一連の話の内容は、「そもそもこの物理的な世界には客観的な意味が存在していないのだ」という前提に基づいています。意味が客観的に存在できないならば、その感覚は自分自身の主観の中につくり出すしかなく、それはこの世界が原理的にそうなっているのだということです。この指摘が本書の出発点となります。
さらに、多少なりともこの社会で他人と共同作業をしている人であれば誰でも知っているとおり、個々の人間の考え方と感じ方、その好き嫌いや信義といったものはお互いにあまりにも異なっています。同じ人格や感受性を持つ人間、同一の経験をした人間がどこにもいない以上、その主観的内容は必ず一点ものになります。オーダーメイドの作品のようなもので、大量生産の既製品で済むということはあり得ません。これが二つ目の重要な前提です。
つまり、この本は「自分らしく生きるってなんか素敵だよね」というだけの曖昧な理由で書かれたものではありません。私が本書によって「主観」というキーワードを強調しようとしているのは、「それ以外の場所にあなた自身の人生の意味は決して見つかることがないのだ」という指摘であり、これは「貴重な人生の時間を無意味なもので終わらせてはならない」という、ある種の危機感に基づいたものだと言うこともできます。
誰に向けて、どんな目的で書かれたのか
本書の目的に続いて、想定する読者層についても説明しておきます。ここには、この本を書いた私が「どうしてわざわざこのようなことを伝えようと思ったのか」が関わってくるので、書き手の個人的な感情についても触れておくことにします。
この本を開いてくれるであろう読者として、私が最初に念頭に置いたのは、ひとまずは「一人前の社会人」として認められるくらいに毎日お仕事を頑張っており、明日の衣食住に困るような状況にはないという、いわば「普通の人たち」です。そしてこの普通の人たちのほとんどは、やりがいの欠如、終わりの見えない多忙さとプレッシャー、やっかいごとばかりの人間関係などを抱えており、そうした不満は「ささやかな幸せで満足しましょう」といったスローガンを簡単にねじ伏せてしまうのです。仕事やプライベートの生活の中で、束の間の喜びがないわけではないにしても、頭の片隅にはいつも徒労感や満たされなさがあります。これをあなたや私にとっての一般的な状態だと仮定します。
ただし、この読者像はそれほどはっきりと限定したものではありません。本書では「生きるということに何の意味があるというのか」という疑問を正面から取り上げようとしているので、この点では、自己のアイデンティティや存在意義ということに特にナイーブに悩みがちな十代のように、もっと若い世代に向けられた内容も多く含んでいます。また、あなたが何らかの病気や心理的な事情などによって周囲と同じように働くことができず、「一人前でない」というレッテル(自罰的なものを含む)に苦しんでいるとしたら、これもやはり本書で扱いたい問題の範囲内です。
しっかりと前を向いて生きていくということは、誰にとっても難しい話です。若い世代の成長を例に取ると、高校や大学への進学というステップが進めば、人間関係の悩みは以前よりもずっと複雑で割り切れないものになってくるし、職業選択という形で「自分とは何者なのか」「自分が本当にやりたいことは何なのか」という問いかけに本格的に向き合う必要も出てきます。こうした課題に常に前向きで、ひたすら夢と希望に満ちているだけだという人はいないでしょう。可能性とは未知のもので、未知とはそのまま不安を意味します。運がよければ、同じ方向にある将来を語り合えるような同級生や、要所要所で手助けをしてくれる心強い大人たちに恵まれるかもしれませんが、基本的には、これに向き合うのは本人に与えられた仕事です。
さて、そんな若者たちが学校を卒業して社会人となり、世間の荒波に揉まれるということがひととおり済むと、いつからか「世の中そんなものだ」という悪い意味での諦めを持ってしまう人がちらほらと出てくることになります。未知だったはずの可能性が「この程度のもの」として固定化されてしまうわけです。これもまた、よく知られた話です。
部分的には、私にこのような本を書かせた動機は、十代以降の筆者自身が抱えていた「大人たちはこのような問いかけに真面目に答えてくれない」「誰も生きるということを真剣に扱おうとはしていないようだ」という感情がベースになっています。さらには、成人して仕事に忙殺されるようになって以降は「みんな本当にこれでいいと思っているのか」「こんな商売に何の意味があるのか」という疑問、そして「自分は本当にこんなことをしている場合なのか」という焦燥がここに加わりました。
今にして思えば、こうした批判が一面的に正しいものだとは思われません。何はともあれ、人は働いて生きていかなければならないし、十代の理想主義だけでどうにかなるほど人間の社会は単純にできていないからです。人にはそれぞれ事情があって、その人だけに与えられた苦労、その人だけが知っている努力があります。他人の苦しみをリアルに知ることは誰にもできません。誰にもです。平凡に生きているように見えるというだけでこれを否定するのは、世間知らずの傲慢というものでしょう。また、誰もが自分の課題は自分で解決するしかなく、自分の人生には自分で責任を持つしかないという点を考えれば、十代の若者に「俺が考えた正解の生き方」を押し付けないというのは、大人として誠実かつ健全な態度でもあります。
しかし、私は今回のようなテーマで本を書く必要があると考えました。使えない正解を押し付けるためではなく、読者自身にその答えを改めて考えてもらうためです。さきほど若さゆえの一面的な批判として挙げたものの中には、その後に続く数十年の生活において決して手放してはならない、根源的な疑問が含まれています。それは「本当にこれでいいのか」「本当にこの程度のものなのか」という問いかけです。
それをやめてはなりません。自分はこの程度だと決めてしまうのなら、内的にはもうその場で死んだようなものだからです。
現実の生に「めでたしめでたし」はない
問いかけをやめないという点を考えれば、本書はここまでに想定してきた十代の悩める時代や、内外の自立をものにする二十代・三十代という世代だけでなく、もっと先の世代をもターゲットにした本でもあります。
「これでいいのか」もしくは「これでよかったのか」という形の疑念として、四十歳前後といった中年期に起こるとされる「中年の危機(ミッドライフ・クライシス)」という言葉はよく知られていますね。身体面の衰えといった事情もいくらか関わってくるとはいえ、これもやはり、自身が行うことの外面的・社会的な意義だけでない「自分にとっての意味」、すなわち主観的な意味という問題です。
さらに年数が経過すれば、いつかは定年退職という事件が発生して、そのために平日の時間の大半を費やしていた業務、役割、居場所と人間関係のほとんどが一度に消滅することになります。こうしてぽっかりと空いた穴を埋めることは、生活全体の大規模な再構築であると同時に、自らにとっての意味の再定義でもあるはずです。筆者自身がまだこのような年齢に達していないので、さすがに「この本の内容が必ず役に立つはずだ」とまでは言えませんが、少なくとも問題の構造と感触は似通っていると想定してよいでしょう。
結局、意味付けが可能なものとして考えたとき、人生はゴールとか目標達成という枠組み自体を拒否するものですから(この点は本書の結論として最後に出てきます)、本書が扱っているテーマも、特定の世代に限った問題ではないということになります。ライフステージが進めば、課題の具体的な形式は変わりますが、私たちは相変わらず私たちのままだし、問題の根本は何も変わりません。今それが解決できないのなら、解決しようとしないのなら、年齢の数だけ増えたところで勝手になんとかなるということは今後も起こらないでしょう。
「これでいいのか」ということが永遠の疑問である(ように今のところは見える)とすれば、本書が目指す最終的な到達点は、あなた自身がこうした生の課題のすべてを消化し、ただ「これでいい」と言えるようになることにあります。しかし、それはあなた自身が本気で闘うことでしか得られません。それこそが、この本の書き手と読み手が今から一緒に行おうとしていることなのです。
本書の構成
全体の流れ
本書の概要はだいたい説明できましたので、全体の流れについても簡単に見ておくことにします。
大まかな流れとして、この本では以下の四つのことを行いたいと思っています。カッコ内にも書かれているとおり、実際の章立てはもう少し細かく、全七章で構成されています。
行うべき仕事を知る:私たち自身の中にある「満たされなさ」を自覚し、誤った解決方法への期待を捨てる。本書の中心に据えた「人生の意味が他人の主張、指導、評価から与えられることはない」という前提を明らかにし、意味の感覚を自分自身の力で構築していくことの必要性を確認する(第一章「最初に捨てておくべきもの」、第二章「私たちはなぜ満たされないのか」)
新しいコンセプトを得る:人生を意味付けしていく上で核となる、いくつかの重要な考え方について知る。特に、進化の一例としての人間の性質、有限性とトレードオフの概念、心理的領域での問題解決の手順と原則など、あくまで現実世界の仕組みを理解して、実際的に人生上の課題に対処していけるようになることに重点を置く。また、成長の一般的なイメージである「身につける」「高める」を「捨てる」「外す」という観点に切り替える(第三章「意味は主観的な領域にある」、第四章「自己、ただひとつの道具」)
実践へと移る:意味付けの根拠は自己の内側にあるが、外の世界で何かを「する」、他者と「関わる」ということなしに、人間性の内部が豊かになることはない。仕事、恋愛、趣味、それらを取り巻く人間関係など、日々の生活に存在する具体的なトピックに目を向けて、自分自身の人生の改善を進める(第五章「この人生で何をしますか」、第六章「他者という救い」)
それを行い続ける:達成と結果という思考の枠組みを捨てて、過程と変化という流れに身を置き、「それ自体としての意味」に徹底する(第七章「意味とは過程である」)
ここに並べた全七章のあとには、本書の結論としての「結び」が配置されています。この結論は非常に短いものです。結びを述べることがさほど重要でないという点は、各章の内容を読み進めるうちに、理屈としても感覚としても理解できてくるのではないかと思います。
キーワードを集める
あらかじめお断りしておくと、本書の特に前半では、私たちの人生上の課題が「何かを読んだり聞いたりしたからといって、すぐになんとかなるような話ではない」という基本原則について、読者のみなさんと一緒に繰り返し確認していく流れとなっています。話の中でも出てくるように、現実の理解なしに現実的な解決は起こり得ないし、誤った想像と願望に基づいてどこかへ邁進するということは、寝転がって何もしないよりも悪い場合があるからです。
しかし、人は手応えや達成感のない物事を頑張り続けるということはできないものです。お客さんから感謝される場面が全然ないとか、片付けた分と同量の仕事が無限に追加され続けるといった状況が続くなら、それでやる気を出せというのはちょっと無理がありますね。前進の実感というのは、確かに必要です。
そのため、この本では各章の終わりに重要なキーワードの振り返りを行い、あなた自身が人生を豊かに意味付けていく上で「実際に使える道具が手に入った」ということを確認していくことにします。これは定義済みの問題文と決定済みの解答のセットではありません。もっと微妙な形で毎日毎日提示されているあなた自身の人生上の課題に対して、以前よりも適切な理解と上手な対処を行なっていくための、新しい視点や概念のことです。なぜ決定済みの解答がことごとく役に立たないかという点については、ここまでの序文でも軽く触れましたが、詳細は第三章で扱うつもりです。
今はまだ見えない「自分自身の答え」が心の奥底で熟していくのを期待しつつ、当面は目に見える形のキーワードを集めていくことにしましょう。
コラムとその役割
キーワードの振り返りと並んで、各章の終わりには短いコラムを挟んであります。これは筆者自身の過去の経験、生活の中で目にした人物、深く関わってきた人々などから、本書のテーマに対して何らかのヒントを投げかけてくれそうな話を集めたものです。いわば箸休め的なコラムになるわけですが、これをご用意したことには本書のコンセプトと関係した理由があるので、再現性と個別性という観点について、もう少し詳しく説明しておくことにします。
本書の方針としては、偶然と偏りが多分に含まれるであろう個人的体験談だけをベースに何かを主張するということをしたくなかったので、こうした個人的なエピソードを話の本筋に組み込むことは避けるようにしました。とはいえ、達成感がないと頑張れないという話と同じく、人が個人の体験に基づかない抽象的議論に心を動かされるということは基本的にありません。ある意味では、人を動かすのはまったく個人的な体験、個人的な熱意、個人的な言葉だけだと筆者は考えます。
科学やビジネスの話題であれば、再現性のない話というのは役に立たないものです。心理学の領域で「人の心にはこのような傾向がある」と言いたいのなら、たまたまそうなっている人を二人か三人連れてくるだけではもちろんダメで、無作為に選び出した何百や何千といった被験者からデータを集めて検証するといった方法が必要になります。さらには、同じような調査を別の地域で別の研究者が行ったとしても、元の主張が正しいとすれば、やはり同じような結果が出ることが求められます。
しかし、私たちの持って生まれた資質、育ってきた環境、これまでの経験とこれから出会う経験はすべて一回きりのものであり、サンプル数として「n=1」を超える調査やテストを行うことはそもそも不可能です。サイコロの目の出る確率はどれも等しく六分の一ですが、それを振ることになる重大な人生の岐路が数回しかないとしたら、統計的な平均値などというものにいったいどれほどの意味があるのでしょう? 私たちはそこにデータとか統計的根拠といった支えを求めることはできないのです。
筆者はこの本の読者がいくらか論理的・知的な傾向を持っていると想像しており、実際にそういう資質が大切だということにも同意しますが、本書がお伝えしようとしている内容一式の根拠は別の場所にあります。人生の意味付け、そしてこのやっかいな私たち自身の心と上手に付き合っていくには、「わざわざ科学と論理に反することはしないが、科学的・論理的な方法もアテにしない」という微妙なさじ加減が求められます。ここには一部の現代人に独特の「理論的な説明と証拠がないと安心できない」という心の課題も関わってくるので、この点も第三章でもっと詳しく考えていくつもりです。
知識はきっかけに過ぎません。実体験に根ざさない知識は無力なものですし、行動へと向かわせない知識についても同様です。あなたが他でもない自分自身の実践と経験によって思索を深めていくにあたり、ほんの補助的な装備として、章末のコラムという形で短く載せられたエピソードも何かの参考にしていただければと思います。
再び、何よりも伝えておきたい個人的見解について
長い前置きはここまでにして、最後にひとつだけ重要な見解をお伝えした上で、本編に入ることにします。
私が本書の内容によって伝えたいものには、客観的な知識やノウハウとは関係のない、単なる「気持ち」というものも含まれます。この世は困難でままならないことばかりですが、私たちは自分の力で幸せになることができるのでしょうか? 自分の人生を意義深くしていくことが、自信を持って自分のすべてを肯定できるようになるということが、個人の努力だけで本当に可能なのでしょうか?
これに対する私の個人的な回答は「たぶんできると思う」です。
ここで「可能だ」という断言ができずに気の抜けたような調子になってしまうのは、実際に失敗や未達成に終わってしまう人もこの世では少なくないらしく(おそらく制限時間が短いのでしょう)、そうした断言は「事実に基づく」という本書の方針に反するからです。しかし、私は個人的には、それは可能だと信じています。私はそれを疑っていません。
では、仕事に取りかかるとしましょう。
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