見出し画像

人に寄り添えないASDの話

先日、アスペルガーの家族がいるという人の投稿を見た。いわゆる自称カサンドラの方のものだ。ざっくり言うと、辛い時に寄り添ってくれないという内容だった。ぐっさり刺さった。心当たりしかない。

私は18まで実家に住んでいた。
あるとき、母親が病気で入院、手術、その後も長く通院をすることになった。
かなり深刻な顔で病気のことを伝えられた。私は驚きもせず、いつ頃どれくらい入院するのか、お金は大丈夫なのかと言った事務的な質問しかしなかった。
その後、母親は学校の担任にもその旨を話したらしく、わざわざ面談室に呼ばれてケアの言葉をかけてもらった。正直迷惑だと思った。母親が病気であることは、私にとって辛い事じゃない。だって私が病気をしているわけじゃないのだから。私は痛くも痒くもない。
当時高校生だったから、身の回りのことはだいたい出来たし、母親がいないことでこれと言って困ることもない。勉強なんて元々学校以外でやらない人間だったから、家事で勉強ができないなんてこともなかった。
なんなら、母親が入院している期間、祖母が私のお弁当を作ってくれた。母親は兄のお弁当は作るけど、私のお弁当を作ってくれる人ではなかった。だから嬉しかった。
(一応フォローしておくと、入学して最初の頃は作ってくれていました。でも私は偏食が酷くて食べられるものがあまりなかったので、母親は私のお弁当作製を諦めた感じです。私は自分で好きな物だけ詰めて持って行ってました。)
母親のお見舞いも行った。お見舞いは楽しかったという記憶しかない。母親と同室のおばちゃんが私を可愛がってくれた。顔をだすと、わざわざ車椅子で売店に行ってお菓子を買ってきてくれた。親と学校以外で大人とお話できる機会はあまりないから、優しいおばちゃんとのおしゃべりが楽しかった。
病院にはちょっとした図書館もあった。学校の図書館とは違ったラインナップで超楽しかった。母親の名前で本を借りてきて読める。最高だった。

母親の手術が終わると、身体中にチューブが刺さっていて、チューブの中を血が通っていた。痛々しいと捉える人もいたのだろうけど、私にはそれが物珍しくて、どこからどこに繋がってるいるのー?と興味津々な言葉を向けて面白がるだけだった。

そんなわけで、一貫して私は母親に寄り添った言葉を何一つ掛けなかった。苦しそうな顔をしている母親に対して、何も思わなかった。不安になることもなかった。だって私のことじゃないから。

母親は私がこんな人間だと分かっているから、あの頃は毎日お見舞いに来てくれてありがとうと言っていたが、本心は、まるで心配しない娘をどう思っていたのだろう。
私は本当に、病院という非日常が楽しくてお見舞いに行っていた。母親に対して心配した記憶がまるでない。
今になってはもう少し何か言えばよかったなとは思う。何を言えば正解なのか分からないけど。

基本的に、人と感情を伝え合う行為が苦手だ。苦手というか、必要性を感じていないと言った方がいいかもしれない。事務的な情報の交換さえ出来れば良いと本気で思っている。
特に、母親はかなり感情的な人間だったから、彼女とのコミュニケーションは私にとって情報過多だった。健常者は(主語でかくてすみません)、心配してほしいならそういえばいいのに、何か他の表現で仄めかす。共感して欲しいときに共感して貰えないと、悲しくなる生き物らしい。生きるの大変そう。
これまでの人生でそういったシーンを経験して、そのパターンに勘づくようにはなったが、その感覚は未だにメイクセンスしてない。

初対面の人に趣味を聞く芸当も、「私はあなたの敵ではないよ」という人間の特性と知るまでは、まるで理解できないものだった。だいたい、趣味ってなんだよって感じだし。

だから、アスペルガーの家族が精神的に寄り添ってくれない!という訴えが、嫌にも想像ができてしまう。精神的な寄り添い、あれは定型発達特有のコミュニケーションなのかな。
ほんとに、すみませんと思う。

実際には、友達や仲良くしてくれるフォロワーさん、あるいは飼い犬などには心配の気持ちは芽生える。友達がしんどそうだと大丈夫かな、出来ることあったら何でも言ってね!と思う。でも多分、共感することはないと思う。だって、私は本人じゃないから。
多分、母親に対しても、やって欲しいことを言われたら全然やるし、やったと思う。心が寄り添えないぶん、行動で示すしかない。
母親にこんな娘ですみませんとは思う。思うけど、親子ってそれだけじゃないから、難しい。私は私で彼女に対する確執は他にたくさんある。

いやー、寄り添うってのは、どんな状態を言うのでしょうか。誰か私に寄り添って教えてください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?