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中村文則『土の中の子供』を読んで

私は中村文則が好きだ。今までに読んだ彼のいくつかの作品、『何もかも憂鬱な夜に』や『掏摸』、『教団X』には、空虚な生への諦めと安らかなる死への緩やかな吸引が描かれている。生と死、どちらが人に幸福を与えてくれるのだろうか。

芥川賞を受賞したらしい今作も、中村文則らしい生死の狭間にたゆたう人の姿が描かれている。ひどい虐待を受けてきた主人公が大人になり、生きる活力もなく、何もない、つまらない日常を送る。その描かれ方はリアルで、振り子のように過去と今の記憶が交錯する。(普段の記憶の思い出し方ってそうだよね。とりとめなくごちゃ混ぜに、ふと記憶が浮かび上がる感じ)

印象的なのは、虐待の記憶以外に、要所要所に暴力と死が現れること。冒頭の集団リンチに始まり、踊り場から落とされる缶コーヒー、道で伸びた蛙、干涸らびたミミズが、すぐに届きそうな、隣り合わせで身近な死を暗示しているように思う。死、というものは、恐ろしいものではなく、すぐ傍に、佇んでいるのだ。



表題「土の中の子供」の伏線が、中盤に回収される。主人公は虐待の末、山奥に一度埋められたのだ。

仰向けの幼い私に、少しずつ土がかけられていく。あの時、目が覚めた私の見た光景はそういうものであり、彼らが私に加え続けた、暴力の結末だった。………もう一度目を開いた私は、土の内部にいた。土の含む水分で服が濡れ、私の身体を心地好く冷やしていた。胎児のような姿で、懐かしく、自分は以前確かにこうしていたのだと思いながら、また眠ろうとしていた。…このまま、土と同化して消えていくことができるのなら、どんなにいいだろうと思った。

幼子が土をかけられ埋められるという光景は、凄惨でありながら、優しい死へと向かう過程でもある。相反するはずのものが溶け込んで混ざり合っているのが中村文則らしいと思った。

この物語のテーマだと思うのだけど、死は無であり安らぎであり、生は混沌としてむなしいものである。受けてきた暴力の記憶と戦うのではなく、優しい死を待ち望む。そんな、一種、諦めに似た気持ちで時間をやり過ごす人。何もしたくなくて、穏やかで優しい死を待ち望む。決して人には言えないけれど、きっと誰しもが抱いたことのあるそんな気持ちを代弁したかのような小説に、救われる人もいるかもしれない。

私は、彼の小説を読むたびに、陰鬱な気持ちで、でも生きる意味を見つけようともがいている自分は普通で、一人ぼっちじゃないような気持ちがしてくる。

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