湯の花

心地が良い。耳をくすぐる湯の音が、己に貯まる凝り固まった淀んだものを砕いて、押し流していく。
肺に渦巻く暗いものを、己を見下ろす空へと向けて投げ出した。自然は全てを受け止めてくれた。少なくとも私は、そう感じた。
ゴツゴツと不揃いの岩が、体に食い込み、小さくない痛みを感じることもあるが、生きることに比べれば、大したことのない刺激にすぎない。
あまり強くはないが、今日という日のために、一等よいお酒を買ってきた。誰も居ないことをいいことに、瓶の口に唇を押し付けて飲み下した。ぐっ、と、喉を過ぎる、程よい辛味に身を竦めながら、鼻に抜ける香りに、よくわかりもしないがいい酒だ、なんて言葉で、体験を飾った。見てくれが華美であれば、中身がなくとも意外と楽しいものだ、と、身を持って感じる。
頬が、湯によるばかりでない熱で火照ってきた。酒精が五臓六腑を駆け巡り、思考が高速にぐるぐると回り始める。
持ち込んだ酒は瓶に半分は残っていたが、もはやこれ以上は飲めそうにない。これから行うことを考えると、一つ清めも含めて、全て湯の中に流し込んでしまった。
一瞬、あたりに酒の香りが広がったが、それもまた、すぐに湯の香りが押し流していく。しかし、一切の惜しさも感じず、むしろ痛快ささえあった。
空になった瓶を、適当に遠くへ投げ捨てる。くだけて響くガラスの音すら、一種自然の音かのように思えた。
近くに置いていたリュックサックから薬の箱を取り出した。事前に処方されたものを、一錠一錠ちまちまと取り出して詰め込んだ。いくらか湿気たり、良くないのかもしれないが、どうせ一度に使い切るのだ、問題はないだろう。
箱の蓋を開け、一思いに口の中に入れる。リュックからペットボトルの水を取り出して一気に飲み込んだ。口の中にゴロゴロと転がる薬と苦味を感じながら、そうか、さっきの酒で飲み込んでしまえばよかったか、なんて考えながら。
違和感の残る口の中を水で濯いで、改めて空を眺めた。変わらず雄大な空は私を見下ろしている。酒のおかげか、ずいぶんと薬のまわりが良い気がする。うつらうつらと意識が深みに落ちて行く。末端からどんどんと力が抜けていく。眠りが私を迎えに来てくれる。これでいい。多少の不安はあったが、うまく行ってくれているようだ。

沈んでいく。意識の灯は消えて、ずぶずぶと底なし沼の奥底へ。早々に腐敗したとて、誰も、それを見ることも感じることも、知ることもない。自然の中で行われることが、ただ行われるままに。
しかしもし、誰かが、思考する命が彼が消え去る前に見つけることができたなら。そしたらそこには、湯気立ち、溶け出した鉱物が、折り重なり形をなした、鈍い湯の花のように咲いた喜色を、目することができただろう。

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