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鉄道とBRTでつなぐ、春の三陸海岸 ⑥6日目(鹿島→上野)[終]

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【17】コロッケそばと野馬追と 鹿島→大野

鹿島駅。ここともしばしの別れ
原ノ町駅。中枢の駅らしく広々としている

 2022年4月1日、金曜日。問題集を詰めて少し重くなったバッグを背負い、3度目の鹿島駅にやってきた。
 3月25日にスタートした今回の旅も、間に挟んだ2日間の休養を含めて今日でラストの8日目となる。ひたすら常磐線を南下するルートをとるが、この途上に、僕が行きたい最後のポイントがある。まずはそこまで向かうとしよう。
 駅まで送ってくれた祖母に別れを告げて9時37分、原ノ町行きの普通列車で出発。すぐに真野川を渡るがスピードは非常にゆっくりだ。2週間前の地震で橋に損傷があり、まだ復旧が済んでいないからだ。いつもは6分で走破できるこの一駅間を15分かけて走り、9時51分に原ノ町駅に到着した。
 原ノ町駅は南相馬市の代表駅で、いわきと仙台のほぼ中間に位置するため常磐線の運転上でも重要なところになっている。駅構内は広く、3番線までの乗り場に加え側線もあり、出番を待つ車両が一休みしていた。大昔は黒い貨車が十数両と連なってたな、という記憶がぼんやりとある。
 震災の発生時、上野行きの特急列車といわき行きの普通列車がこの駅に取り残され、以後5年もの間側線に留め置かれた。2016年3月に解体される直前になるともうすっかり外観は朽ち果てて、特急列車・651系の方は白いボディだったこともあって見るに堪えないほどだったのを、よく覚えている。ある意味震災の悲劇を象徴する車両たちだったと思う。
 ちなみにこの辺りは旧原町市、駅の表記とは異なっているのだが、これは駅名が陸前浜街道の「原町(はらのまち)宿」に由来しているからだと思われている。
 次の列車までは2時間近くあるので、いろいろと見てみる。相馬といえばやはり「相馬野馬追」、相馬周辺、ひいては福島県を代表する祭りの一つである。平安時代、武将・平将門が行った軍事演習にはじまり、それから相馬藩に受け継がれ、土地の安寧を祈り千年以上にわたって脈々と続いてきた、伝統ある行事だ。
 原ノ町駅も野馬追にちなんだ装飾がところどころにされていて、駅の看板は騎馬の絵が描かれたもの、また写真が何枚か貼ってある。そして駅舎の中に入ってみると、売店の看板の上にはまるで絵巻のように一面に描かれている馬の絵が。昔から大事にされてきたことがよくわかる。僕はまだきちんと見たことがないので、今度は祭りのシーズンに訪れたいと思った。

駅舎内に描かれた馬の絵。他に神旗なども飾られている
「丸屋」さんのコロッケそば

 駅のすぐ近くにある図書館で、震災にまつわる資料を探したり、蔵書を見たりしたあと、「丸屋」というそば屋さんに寄る。大元は駅前にあるホテルで、震災前は駅構内にて立ち食いそばのスタンドを営業しており、駅弁の販売(しかも立ち売り)も長年行っていた。数年前に駅構内からは正式撤退となってしまったが、そばの提供は駅前で現在も続けられている。そういうわけで、一度行ってみたかったお店なのだ。
 420円のコロッケそばを注文。驚いたことにデフォルトでお揚げがついていて、これが甘くておいしい。さらにびっくりしたのが、コロッケが普通のものではなく、カレー風味のものだった。普段はあまり頼まない類のメニューだが、注文してみて大正解だった。
 腹を満たしたところで、11時59分発のいわき行きに乗る。発車する直前に品川からの特急「ひたち3号」が到着し、快速列車に化けて出ていった。乗車率はなかなかよさそうだった。
 時刻通りに発車、自動放送がずいぶん聞きなれたものになり、関東がぐっと近く感じられる。すぐに原町の市街地は尽きて田畑の間を走り、次の磐城太田駅に停車。簡素な無人駅だが、もう少しすれば駅の裏手に菜の花が咲き誇るはず。
 小高駅を出ると山の中に入り、トンネルを何本かくぐって桃内駅へ。ICカードは東京エリアと仙台エリアのはざまにあるため使用不可で、おまけに周りは緑に囲まれていて秘境感がある。その隣が浪江駅で、B級グルメのなみえ焼そばと大堀相馬焼が有名だ。震災が起きるまでは「DASH村」が存在していた町でもある。
 高瀬川を渡った先のトンネルを出ると、線路の両脇に柵が立っている。まだ線路の外は帰還困難区域なのだ。土地はすっかり荒れてしまい、人が住んでいる様子はない。早くも現実を見せつけられているようだった。
 双葉駅で隣のボックス席に一人座った。立派なカメラを持っていて、車内から何枚か写真を撮っている。記者でもしているのか、一般人なのかはわからなかったが、何か伝えたいこと、記録したいことがあってここにいる、という点は同じなのかもしれないな、と勝手ながら思った。その手段は千差万別である。
 発電所に続く送電線が遠ざかっていって、大熊町に入った。

【18】止まったままだった時間は 大野→いわき

大野駅。降りたのは僕一人だけ、しんとしている
駅の近くにはゲートがあり、奥には立ち入れない

 12時27分着の大野駅で下車。公式的にはここが福島第一原子力発電所の最寄り駅である。ビジネスのためか特急も止まるが、この普通列車から降りたのは僕一人。列車が去っていくと、あとに残ったのは工事をしている音だけだった。かつて2線あった線路のうち上り線側ははがされ、アスファルトで舗装されている。
 無人の改札口の近くには、放射線の線量計がある。この駅もほんの2年前までは自由な立ち入りが許されなかった帰還困難区域だったが、現在はしばらく滞在する分には問題ないほどになった。次に目指すべきは住民の帰還、ということで駅前は整備の途中である。
 まずは東口、海側に降りてみた。新常磐交通のポールがあり、平日の数本のみではあるものの富岡、浪江、川内方面への路線バスが運行されているらしい。交通網の拡充も、街の発展には欠かせない要素だ。ロータリーの横には交番があるが、そばにはバリケードがあり、奥に続く道には立ち入りが制限されている。以前は帰還困難区域ということでぴっちり閉ざされていたはずだが、今日は開いていた。
 駅前の道を国道方面に歩いてみる。大きなトラックが追い越していくのはよく見るけれど、人とはまったくすれ違わない。まだ大野駅周辺は住むことができないので、誰とも会わないのは当然のことだ。建物は、塀が崩れていたり、窓が抜けていたり、ドアが開いていて物が散乱しているのが見えたりして、11年前から時が止まったままだということを実感する。

壊れたままの建物。コインランドリーは物が散乱していた
町立図書館。時計は2時46分過ぎで止まっている

 横道にそれてしばらく行くと、なんだかしゃれた感じの立派な建物が見えてきた。看板を見ると「大熊町図書館」とある。建てられた当時の経済の豊かさが伝わってくるが、青い三角コーンには「解体除染予定 立ち入り禁止」の文字が。現実の非情さに言葉も出なかった。
 原子力発電所が稼働したことで、補助金や雇用の確保により町の経済は大いに潤うことになり、図書館のような公共施設も拡充されたわけだ。
 しかし、その代償があんな形で降りかかってくるとは、予想できなかっただろう。11日の津波によって全電源を喪失した発電所で、1号機の水素爆発が起こったのは翌日だった。詳しい内容についてはここでは割愛させていただくが、大量の放射性物質が放出される事態となり、大熊・双葉の両町を含めた周辺自治体に住む人々は、避難生活を余儀なくされた。11年が経ち、少しずつ街の復興は動き出しているが、新天地で暮らすことを決めた住民も少なくなく、どう再建するかが現在の課題だ。また、風評被害などの問題も根強く残ってしまっている。
 次にやってきたのは、駅を挟んだ反対側の西口。どうやらこちらが駅の「表」らしく、住宅や商店が密集している。しかし、再開発に向けた除染の一環か建物は解体が進んでいて、更地が目立つようになってきていた。駅の横にあったはずのホテルも、いつの間にかなくなっている。
 南方向には警備員さんが数人立っていて、先に行けるかわからなかったので、とりあえず西に進んでみる。地図を見てみると道なりに行った先が常磐道の大熊ICのようだが、交通量は少ない。県立大野病院がすぐ近くにあったが今は休診中で、スクリーニング場(服に放射性物質が付着していないか検査する施設)に転用されているらしい。壁に囲まれているその姿は、病院ではない別の何かのように見えた。
 交差点近くに「KUMA・PRE」という看板が立っていて、新しい建物があった。誰かがパソコンを開いて仕事らしきことをしているのも見える。なんだこれ、と思いこの時は近づかないでいたが、あとから調べるとURと大熊町が手を組んで設立された施設だそうで、町の情報発信も行っているという。それなら入ればよかったなと思ったので、次回行ってみたい。

旧大野病院近くにある「KUMA・PRE」。今年2月にオープン
駅前商店街。いずれは解体される運命にある

 大野駅に戻ってくると、パトロール中だった消防署の職員の方に声をかけられた。高校生が大荷物を抱えてここに来るということは、あまりないのかもしれない。せっかくなのでいろいろと話を聞いてみると、今は大川原の役場方面に抜ける道が通れるから行ってみるといい、建物は解体が進んでいるから今しか見られないよ、ということであった。地元の方からの情報はやはりありがたい。
 警備員の方と挨拶を交わして、通りを歩く。残っている建物は見るからにボロボロで、入口の布が破れていたり、何かが傾いていたりする。降りたシャッターには解体予定と書かれた紙が貼ってあった。公民館の壁に目を凝らすと「広域避難場所 地震・火災・原子力」と書かれている。原子力の町であるゆえ、防災意識はそれなりに強かったのだろう。
 横道にそれて線路の方に行ってみた。道が使われることがないのか、修復されず路面がボロボロになっている。ガソリンスタンドも打ち捨てられている。踏切だけがやけに新しくて、ミスマッチだった。
 とあるアパートの前に掲示板があった。何が貼られているのか、と見てみると、ゴミ収集の日を示すカレンダーだが、平成22年のものだった。本当に、その場所だけ時が止まっているような気がした。でもツバキの花は、ずっと何事もなかったかのように咲いている。
 交差点を右に曲がると、薬局がある。駐車場のアスファルトはひび割れて、間から草だけでなく木まで生えてきている。車が取り残されているのがその異常さを引き立てていた。一方交差点を直進すればヨークベニマルがある。店の前だけを切り取れば普通に見えるが、少し左に目線を動かすと、プレハブの建物がいくつかあるのがわかった。復興事業の事務所にされているらしい。そして左折した先には旧役場。人がいないのが不気味に思えるほど、変わった様子が見受けられなかった。

カレンダーは平成22年度のまま
何気なく撮った脇道の様子

 そろそろ時間かなと思い、大野駅に向かって引き返す。見ている風景は、写真で切り取った一瞬だけを見ると、日常のように見える。でも、漂う空気は、日常からぐっと遠く感じられる。この光景を生み出したのが天災か人災かは、関係なかった。見ているものを前にして、ただ悔しいと思った。
 今日までの1週間で感じたことを、きちんと共有したい。僕が物書きになろうとするきっかけとなった、その思いの源に戻ってきたようだった。そして、この旅のきっかけにも。
 得たもの全部、大事に持って帰ろう。そう思って電車に乗り込んだ。

 14時37分、大野駅を出発。水戸までは3時間弱、かなりの長丁場だ。
 次の夜ノ森駅が帰還困難区域の端にあたる。近くには桜並木があり、毎年春に行われる桜まつりが有名だ。しかも駅にはツツジも植わっていて、震災前はちょっとした名所だったのだそう。除染のためツツジは一度伐採されてしまったが、また植えなおされた。花が美しい季節に来たい駅だ。
 開けてきて車窓に海が現れると富岡駅に着く。ここは津波で駅前を含め壊滅的な被害を受けてしまい、2017年10月の再開時に駅は再建された。まだ浪江からここまでが不通だった時は、代行バスから651系の普通列車に乗り継ぐのが僕のいつものパターンだった。バスから見る国道6号の景色も、それはそれで心を痛めるもので、今も記憶に鮮明に残っている。

末続駅
久ノ浜~四ツ倉。常磐線で最も海が見える(個人の感想)

 駅舎が建て替えられた竜田駅、そのあと木戸駅、Jヴィレッジ駅、広野駅と続いて、末続駅に着く。小さな無人駅だが、ホームからは海が見え、色とりどりの花も植えられている。個人的には常磐線でもトップクラスでロケーションがよい駅で、僕も大好きだ。そうは言いつつまだ下車したことはないので、ぜひ機会を作って降りてみたい。
 久ノ浜駅から四ツ倉駅にかけてが、一番海に近づく区間。常磐線のいわき以北では車窓のハイライトといっても過言ではないところで、僕もいつも楽しみにしている。この景色とローカルな雰囲気に浸るだけでも、列車に乗ってみる価値はあるのではないだろうか。
 四ツ倉駅と草野駅はいつの間にか駅舎が建て替えられていた。この区間は木造駅舎の多いイメージを勝手に持っていたが、今後こうして古いものは少しずつ消えていくのかもしれない。今だから記録できるものを目一杯、とは僕も大事にしていることだ。
 夏井川を渡り、建物が増えてくるといわきの中心部だ。

【19】旅の終わり いわき→上野

浜通り最大の都市、いわきを発つ

 15時46分、いわき駅を発車。所定ダイヤだと17分停車するはずだったのだが、途中で徐行したからか、5分止まっただけで出発した。
 1966年に5市9町村を合併して誕生したいわき市は人口32万、これは仙台市に次いで東北では2番目に多い数だ。古くは平の城下町として、明治以降は炭鉱の街として、高度経済成長期から現在に至るまでは観光都市として、浜通りの中心的な役割を担っている。ちなみに、常磐線はここで取れた石炭を首都圏へ運ぶために建設された路線だ。
 いわき駅の2つ隣が湯本駅。「スパリゾートハワイアンズ」や「アクアマリンふくしま」などの最寄り駅で、いわきの観光の入口、というイメージを押し出している。駅名標に温泉マークがあったり、駅の中に足湯があったりもする。
 次の泉駅にかけては工場が建ち並んでいる地域。戦後、炭鉱が衰退してくると工業都市への転換を目指し、小名浜港を中心に工業地帯が発達した。こうした背景があり、泉駅は首都圏からのビジネス需要が大きく、特急列車もすべて停車している。
 勿来駅を出ると、車窓に再び太平洋が登場。かつては関東と東北を隔てる勿来の関があったところで、地形が険しくなっているのがわかる。トンネルを2本抜けて、茨城県北茨城市に入った。
 磯原、高萩と海沿いの街の特急が止まる駅が続いて、日立駅に到着。この街を拠点とする日立製作所の工場は、常磐線沿線にも建っている。世界の日立といってもいいくらいにはよく知られている地名のはずだ。ちなみに日立駅はガラス張りのきれいな駅舎に建て替えられて、海も見えるという。機会があれば降りてみたい駅だ。
 日立電鉄線との乗換駅だった大甕駅(おおみか、と読む)を出て、しばらくすると久慈川を渡る。上流域を水郡線が走っていて、川と織り成す景色は一見の価値ありだ。そしてその久慈川の向こう側が東海村で、原子力関連の施設が多く立地する「原子力の村」だ。
 広大な車両基地の横を通り、勝田駅に着く。折り返し列車の関係なのか、次が終点だというのに後ろに5両を増結した。那珂川を渡り、鹿島臨海鉄道の高架橋が合流してくると、県都・水戸の駅は間もなくだ。いくつにも分かれるレールに夕日が反射してまぶしい。

アンカーを待つ
土浦駅を高速で通過

 17時22分、水戸駅に到着。1分の遅れもなく助かった。早歩きで移動し、すぐに列車が入ってきた。特急「ひたち22号」品川行きだ。3月25日朝の「なすの407号」から、乗り継いできた列車はBRTを含めると28本。ついにこれが29本目、アンカーだ。
 17時27分、時刻通りに発車。車内は結構混んでいる。聞きなれたチャイムが鳴り、列車はスピードを上げていく。すぐに千波湖や偕楽園の横を通りすぎ、田んぼの間を駆け抜ける。この速さこそ、常磐特急の醍醐味だ。普通列車でゆったり行くのにも、特急列車で快適に行くのにも、それぞれによさがある。
 物思いにふけっていたら、いつの間にか土浦まで来ていた。すっかり東京の通勤圏内、都会感が増してきた。だんだんと空が明るさを失って、夜の景色に変わっていく。取手駅をすっ飛ばし、地下鉄千代田線の電車とすれ違って、利根川を渡ると千葉県に入る。

松戸駅を通過
北千住駅を通過。東武線の電車が見える

 我孫子駅から先は、建物が途切れることはない。ビルが右から左に流れていって、柏駅を通過。各駅停車だけが止まる駅には目もくれず、あっという間に松戸駅。そして江戸川を渡り、ついに東京都に入った。
 綾瀬駅を過ぎて東武伊勢崎線の下をくぐり、荒川を渡る。12月は上野から下っていくとき見た東京の風景を、今度は反対側から見ている。少しずつ列車はスピードを落としはじめ、北千住駅を通過。降りたくないなと思いながら、荷物をまとめた。
 左に大きくカーブして東北本線と合流、常磐線の起点である日暮里駅を通過した。もうすぐ、旅が終わる。

 18時37分、上野駅に到着。やはり東北の旅の始まりと終わりはここでなければ、といつも思う。
 7日前と同じように、地平ホームに寄った。ラッシュの時間帯だけあって、多くの人が行き交っている。僕は来る列車のない13番線から、ぼけっとそれを見ていた。
 この8日間で、自分は何を得ただろうか。何に生かせるだろうか。それは整理がつかないとはっきりさせられない。でも、僕の中には、この旅を完遂できた達成感と喜びが確かにあった。
 家に帰れば、長い長いまとめの作業が待っているが、それも好きでやっていることだし、ちょっとした不格好な使命感もあるから、決して苦ではない。そこまでやって、今日までの8日間に初めて意味を持たせられるはずだ。

 移動距離 1513.0km(八千代中央→東京、上野→八千代中央含む) (+福島~原町間路線バス約80km?)
 所要時間 7日10時間29分
 利用した交通機関の本数 鉄道・BRT36本、路線バス1本

 初めての三陸旅、これにて完結。




あとがき

 「鉄道とBRTでつなぐ、春の三陸海岸」全6回でした。いかがでしたか?
 第1回でも書きましたが、被災地をめぐる旅は中学生のころからずっとやりたかったことでした。地震が起ころうとも、手首をくじこうとも。さすがに病気がはやったときは考えましたが。それをやっと実現できたということで、本当に安心しています。とはいえ、双葉町や気仙沼市の資料館、陸前高田市の伝承館など、時間の都合や僕のリサーチ不足で行くことができなかった場所もたくさんあります。その他反省点も多く見つかりました。それらは、次の旅までの宿題にしておきたいと思います。
 執筆を始めて、ひとつ困ったことがありました。現地で感じた思いが、言葉でうまく表せないということです。書く段階になればそれは感受性、あるいは語彙力の問題ですが、結果的に同じ表現を繰り返し使う羽目になったり、詳しく書けなかった部分があったりします。あらためて自分のライターとしての力不足(何を必要とするかは人それぞれだと思いますが)と、感情をストレートに言葉にすることの難しさを実感しました。
 どうすれば自分の心を素直に描き出せるのだろう。どうすればちゃんと伝えられるのだろう。考えるべきことはたくさんあります。もしかしたら答えはないのかもしれません。でも、これからも言葉の可能性を信じて、経験を積んで、魅力的なものを書けるようになっていきたいと思います。
 つたなくて長ったらしい文章でしたが、画面の前のあなたの心に何か残ったのなら、書き手としてこんなにうれしいことはありません。この記事をきっかけに、東北を見て感じたいと思って、実際に足を運んでいただけたら幸いです。

 あらためまして、大変な時期だったにもかかわらず旅にゴーサインを出してくれた両親、誕生日プレゼントだからと旅費を援助してくれた祖父母、記事を楽しみに待ってくださった読者の方々、そしてこの旅でお世話になったすべての方々にお礼申し上げます。
 また次の旅でお会いしましょう。最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。

↓三陸旅シリーズのマガジン
春の三陸旅|shiosai0257@東北旅執筆なう|note

そしてまた、新しい旅が始まる……

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