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【三陸旅番外編】常磐線・山下駅の話+α

 今回は、常磐線の原ノ町~仙台間にクローズアップしてのお話です。

春の三陸旅|shiosai0257@東北旅執筆なう|note

当作品は、一応↑現在執筆中の別のシリーズとつながっています。そちらもご覧いただけるとうれしいです。


1.12月、旧山下駅周辺を歩く

 2021年12月29日。「ひたち3号」の取材を済ませ、仙台駅から上り列車に乗った。このまま目的地まで行ってもよかったのだが、僕には途中下車したい場所があった。
 それが山下駅。宮城県南端の山元町に位置し、仙台駅から40分ほどで着くベッドタウン的存在の駅だ。周りには住宅やお店などが建ち並び「つばめの杜」という名前が与えられていて、町の中心部らしい雰囲気が感じられる。
 高架上の近代的な駅だが、ここに今回僕がわざわざ降りた理由がある。11年前の東日本大震災で、常磐線は駒ヶ嶺駅から浜吉田駅までの区間が津波によって甚大な被害を受けた。新地駅と坂元駅は流失、山下駅も全壊は免れたものの浸水した。
 以降この区間は5年半にわたりバスによる代行輸送を余儀なくされたが、2016年12月、経路をより内陸側に移しての運転再開が実現。長らく途切れていた相馬から仙台方面へのレールがつながった。
 かつてのルートは道路などの再整備によって少しずつ姿を変えているが、山下駅はどうやら遺構が残っているらしい、という情報をつかみ、それを信じて今回足を運んだ。
 駅の真下に、国道6号から伸びてきた県道121号が通っていて、線名は「山下停車場線」。もちろん現在の山下駅はここにあるが、道路の終点はここではなく、かつての山下駅だ。地図を見てみると、この道の延長線上に新旧の山下駅が並んでいる。計画段階から、新駅は同じ道路の上に造るつもりだったのかもしれない。
 寒さに耐えながら、旧山下駅に向かって歩く。建物はぽつぽつあり、生活感も感じられる。浸水被害で済んだゆえ、昔から住んでいる人もいるのだろう。

旧山下駅前につくられた慰霊碑とモニュメント

 現在の駅から1.2km、10分強ほどで旧山下駅に到着。事前調査では「山下駅前簡易郵便局」があり、ホームが残されているということだったのだが、その予想は見事に裏切られた。
 郵便局は解体され更地になり、駅の方も道路になる準備が進んでいた。遅かった、と思ってしまった自分が非常に恥ずかしいが、駅跡はきちんと整備されていて、犠牲になった方々の名前が刻まれた慰霊碑と、空に向かって伸びるモニュメントがあった。周りは駐車場が広がっていて、その大きな空間が、ここがかつて駅であったことを伝えている。
 慰霊碑の横には、山元町を写した航空写真や、山下駅と坂元駅の写真も飾られている。山下駅はがれきが押し寄せ、架線柱が曲がっていた。坂元駅はさらにひどい状況で、残されたのはホームと跨線橋とトイレの建物だけ。津波が相当な威力だったことがうかがえた。
 僕にできるのは、慰霊碑に向かってしばらく手を合わせることだけだった。むなしい思いを、今度は3月の旅で、何度も抱くことになった。
 海側に目をやると、車が何台も走っていくのが見えた。あれは宮城県道38号相馬亘理線で、復興の一環として常磐線の線路跡を活用したバイパスが建設中である。地面からの高さが約2~4mになるよう設計されており、津波に対する減災機能を併せ持っているという。街づくりの面からのこうした取り組みも、災害における被害を減らす一歩となると思う。

山下駅開設の立役者、齋藤忠人氏の像

 日も傾いてきたしそろそろ今の駅に戻ろうか、と思い振り返ると、なにやら胸像があるのに気づいた。見てみると、彼は山下駅開設の功労者である齋藤忠人という人物らしい。
 日本鉄道が、この地に常磐線の前身となる路線を開業させたのは、1897年のこと。しかし当初山下には駅がつくられず、村人たちは隣の坂元駅か浜吉田駅まで歩いて、列車に乗らなければならなかった。そのため早くから村の有志が駅の開設を求める運動を始め、苦節50年、1949年5月に山下駅は開業した。齋藤氏はかつて山下郵便局の局長を務めていて、請願運動の先頭に立った1人だったという。
 山下駅に戻ってくると、夕日に照らされて下り列車が出発していった。震災を経て姿は変わったけれど、人々の足として活躍する常磐線の存在は変わらない。これからも、山下駅が愛されて存続していくことを強く願っている。

夕空にまっすぐ伸びる高架橋

 余談、というほど余談ではないが、山下駅の2つ隣にある新地駅では、地震発生時にちょうど止まっていた上り列車が津波に流されるという出来事が起き、大きく報道されていた。相馬警察署に向かう途中で乗り合わせた新任の警察官2人の誘導により、乗客全員が無事避難できたという。新地駅の相馬寄りでは、震災前使われていた小さな橋が、津波で欄干が曲がるなどしているもののギリギリ姿をとどめているのが見える。
 また、山下駅と隣の浜吉田駅との間では、札幌から東京に向かっていた貨物列車が津波に巻き込まれた。けん引していた電気機関車はなんとか脱線を免れ、乗務員も奇跡的に助かっている。
 そんなエピソードのある、常磐線の話であった。

↓同日に取材した「ひたち3号」の話

2.3月、鹿島をドライブ

鹿島区北海老地区の共同墓地から。かつては海沿いに家が並んでいた

 八戸からはるばる帰ってきた後、3月31日のこと。特にすることもなかったので、祖母にドライブに連れて行ってもらった。
 鹿島駅方面へ向かう道中、周りの家の屋根を見てみるとブルーシートがかぶせてあるところが多い。この前の地震で、みんな瓦が落ちてしまったという。南相馬市は震度6強を観測していた。
 国道を越えて海の方へ出る。昔は海沿いに家があったから、よく通っていた道だ。大きな風車が4つも建ったこと以外は、あの頃からあまり景色は変わっていないように思える。
 今日の主題は曾祖父の墓参りだ。もっとも僕が生まれる前に亡くなったらしく会ったこともないのだが。地震で墓石も倒れてしまったそうで、「早いとこ直すの頼まないとねぇ」などと祖母と話していた。そんな共同墓地からは海が見える。すっかり見慣れた光景だ。震災の前は家がたくさん建っていて、その中に祖父母の家もあった。よく岸まで散歩したな、右田の海水浴場まで遊びに行ったな、ホタルを探したけれど結局見つけられなかったな、などということが、10年以上経った今でも思い出される。もう家は流されてしまったけれど、下を向いてばかりではいられない。

相馬のイチゴはいいぞ

 そのあと、相馬市に行って農園でイチゴを買った。本降りの雨だというのに長い列ができていて、寒さの中待つのが大変だったが、買ったイチゴを持ち帰って食べたときの幸福感は、何にも代えられなかった。
 やっぱり福島は落ち着くな、と思ったのであった。

ー三陸旅 最終回に続くー


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