見出し画像

三島由紀夫という怪物(2024.5.8)

今日のひとこと

三島由紀夫を読んでみている。
つまり、まだ何も読んでいないということなのだが。
三島由紀夫という底無しの闇が、まさにその奥へと僕を引き摺り込んでしまうようで、とても怖い。
でも、その闇の世界に包まれてしまうことへの憧れが僕の心の浅いところを燻っているのが分かる。
いっそ呑み込まれてみようか。

日本師弟論がしたかったのだけれど

僕は前々から、「人の拠り所」としての「人と人とのつながり」ということをテーマに哲学してきた。
それは僕の人生の問いにこそなるような一大的なテーマだと確信していた。
先生になかなかの頑固を押し通して、このテーマを手放すことをしなかった。
フッサール現象学やレヴィナスの倫理学、ルソーの社会契約論などを経て、あれも違うこれも違うと行き着いたのが、新渡戸稲造の『武士道』だった。

僕は人が安心できる居場所を求めた。
人は普遍を愛しつつ、しかし常に相対的に生を受ける。
人が安心するのは、それがただ彼を安心させるからではない。
人が安心するのは、彼がそれを安心と決めたからに他ならない。
その安心を育てた時間を彼は安心の根拠とする。

日本人には日本人らしい安心がある。
それは長い歴史と文化の中で大きく育った樹木である。自然が人の心を澄ませるように、その大木は日本人を心の底から洗い流す。
同じように洗われる心を求める性向が民族性であり、その民族性が求める心の豊かさを宗教と云う。

それはしかし我々の場合、儒教とは言わない。仏教とも言わない。天皇崇拝とも古神道とも言わない。
日本には何より長く続く生命が宿っているのであり、その源泉はもはや知れない。それを正そうなどと云うのはなるほど、「お前はなぜ生まれたのか」と人に問うのと同じくらいに意味を持たないものなのであり、然るに今ここにある日本という心が何より見つめられるべきである。

日本人が日本人らしくあることを誇りに思えるつながり

それは幾代にも続く生命のつながりを意味する。
生命とは、慈悲と勇気と狂気の継承である。

師から弟子へ、そしてまた弟子へ
心がつながれていく正統な継承の中に日本人の安心はあると見える。

こうした経緯で、僕はとにかく
日本の師弟論をテーマにするようになった。

三島由紀夫

偉大な人間と呼ばれる者は、必ず師を持っていた。
師は心のつながりにおいて絶対的な作用を成している。

なぜ三島に行き着いたのかということは、ここではあえて触れないことにする。
とにかく、三島由紀夫は唯一人の師として清水文雄を称えた。

三島において、師とはどのようなものだったのか。
考えてみたくなった。
それは研究のためというよりもむしろ、既に僕の眼がまだ見ぬタルタロスに魅入られてしまったがためかも知れない。

我の強い三島由紀夫

意気込んでいた割に、結局あまりにも収穫がないまま収束してしまいそうな予感を拭えないでいる。

三島はなんといっても我が強い。
どこを取っても逞しく、美しく、それでいて儚く狂っている。
まるで天をも自らの思惑に嵌め込んでしまうかの様に全てを呑み込んで膨らんでいく三島の心のひだは、僕の見ようとする世界を簡単に呑み込んでしまって、もはや抜け出しようもない。

僕ははじめのうちは、
三島が師と仰ぐ清水文雄への融合的変化を想定し、感化される三島由紀夫の変化への試みを見通す中で、三島にとっての師というものの見え方を検討するつもりでいた。

弟子ってなんだ

しかし、三島の変化する過程というのは、なんともそういうものではないらしいようだった。
むしろ、三島はその羽をなによりも優雅に広げて(或いはその根をどこまでも深く突き刺して)、終に果てた。

三島由紀夫から清水文雄宛の手紙が物語るような尊敬の態度は、僕が思っていたほど単純な形で取り込まれるわけではないようだった。

三島由紀夫というのは、そもそも師に融合していくような程の器ではないのかも知れない。

いやむしろ、素晴らしい弟子とはそもそも師への融合を望むのではないのかも知れない。
その功績をこそ称えられるような素晴らしい弟子とは、その功績を形作るに至らしめた眼と心を「師から与えられた」ものであると賛美する。それは例えばハイデガーが顕著に示したようにである。

素晴らしい弟子とは、師に融合していくような在り方で自己を形作っていくのではない。
素晴らしい弟子とは、師を感じ取る中で師が取り得る生きる態度とその視点を獲得する。その態度と視点という自己の省察眼を得ていく中で弟子は弟子らしく形作られていく。
その師そのものでこそある眼が自己を勇気づけ、或いは叱りつけ、また或いは恐怖させる。その自己の内的眼が自己を”それ”らしく形作る。

三島のあの秀麗な文体は紛れもなく師から与えられた「態度」が形作った三島由紀夫らしさだろう。
三島の描くあの心がえぐれるような醜さと美しさの混合体は、その態度がなくては完成しなかっただろう。

しかしそれは決して師と同化していくと云うのでなく、むしろ次第に三島の唯一性を現してくる。
師の視点を獲得し、弟子は弟子らしい自己を確立させる。

こうした師弟関係が成り立っているのではないかって、思ったり思わなかったり。


果たしてどうなのだろう。
まだ分からない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?