ドブネズミも白鳥になりうると思う理由

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不安で眠れない夜はいまもたまにある。「ドブネズミも白鳥になりうる」の意味は、簡単に言うと「人は苦しみの渦中にいるときには想像出来ないほど、変われる」という事。

不安から抜け出そうと色々と模索する中で、ふっと時々思い出す。

そう言えば私、これでも随分生きやすくなった。

と。もっとわけのわからない不安に苛まれていた時には、それから逃れられるとは思わなかった。

いまが辛い自分の応援歌として、「人はありえないほど変われる」の実例をまとめようと思う。ひっそりと、同じように悩む人の励みになれば良いなぁなんて思いながら。

其の①ティラノやヴェロキラプトルに怯えてまともに生活できなかったけれど

小学2〜3年生くらいの頃。原因は「ジュラシック・パーク」シリーズを見たこと。小学1年生の夏休みには、恐竜の生きていた時代の年表を、恐竜の分布と一緒に書いた。いとこが男の子な事もあってか、毎夏、いとこや祖父母と一緒に恐竜博に連れて行ってもらっており、恐竜に興味があったので見たのだと思うけれど、登場人物たちは逃げても逃げても食べられる。

見終えてからも、小学校5年生くらいまでずっと、ふとした瞬間にその光景を思い出してしまい、様々な所に支障が出た。

例えば、花火の音は恐竜の足音に聞こえてしまい、ディズニーランドの夜のパレードが始まると恐くて泣きながら「早く逃げなきゃ」と一緒に行っていた人をせっついた。

夜道を歩くと、曲がり角でヴェロキラプトルが待ち伏せている気がしたし、夜ご飯を食べているときには、「もしいま恐竜がここへ来たらどうやって逃げよう」とそればかり考えていた。夜寝ようとしても、物陰にヴェロキラプトルが潜んでいる気がしてならず、鼓動が早まって眠れない。

そのうち「どうせ恐竜に食べられるくらいなら、やせ細って人間なんかまずくて食べられないって思われたほうが良い」と言って、食事を殆ど食べなくなった。夜も眠れなくなり、昼夜逆転生活するようになった。

其の②寂しくて性依存的になっていたけれど

これは小学5年〜中学3年ころ。一番ひどかったのは小5〜中1。原因は、今となっては私の憶測でしかないけれど、小学4年生の頃に両親と色々と揉めてその結果私は精神的に参ってしまい、学校へも行けなくなった。そうして学校へ行けなくなった私を許せずに父親は家を出ていって、私は周囲に責められた。その頃の私の実感として、誰も味方はいなかった。皆が「良かれ」と思って、私に色々というのはわかっていたけれど、どうして皆物事の結果ばかり見てそこに行き着くまでにあった様々な事は気にしないのだろうと不満でならなかった。けれど父親が家を出ていき、母親も精神的に衰弱していく中で、やはりそれらの原因は私だったので私は自然と自分を責め続けていた。

とても寂しくて、誰かに触れてほしかった。食事も部屋でひとりでとっていた。小学4年にあがって以降は、親に大切にされている気がしなかった(それはその頃妹が生まれた事もあると思う。妹はとても可愛かった。ただ育児は大変なので母は私に構う余裕はなかったというだけ)。

そういう前提があった上で、どんどん自分を責めるうち、それまでに感じていた「わくわく・どきどき」というときめきの感情を抱けなくなって、その事に私はすごく悩んでいた。

そんな中で、唯一心が熱くなったのが「過激な写真や動画」で、それを見るとなぜか身体の内側からぐっとくすぐられている様な温かい感覚が湧き起こった。それでしか感情が湧かなかった。

そうして気がつけば1日中、性的な事を考えたりそういう物を見たりするようになった。自分で「おかしい」と思いながら、そうしていないと寂しくてたまらなかった。

中学3年の時、精神科に入院する事になった際、私がまず心配したのが「性的な事を考えられない」ということだった。動画を見たりすることもだけれど、その当時の私は(この後に書くけれど)、自分の考えは周囲に筒抜けだと思いこんでいたので、妄想なんて出来ないと思っていた。

其の③衝動を抑える為に自傷行為をしていたけれど

小学5年生〜高校1年生ころ。最初にどのようにして「自傷行為」を知ったのかはわからない。「ライフ」などの漫画が原因だった気がする。

気持がとても不安定で、寂しくてたまらなかった。性的な事を考えていない時は、自分は一生独りな気がして恐ろしく、それが募り募ると叫びだしたくなって、それを抑える為に自傷行為をしていた。

自傷行為をすると落ち着くと言うけれど、それは本当で、不思議なくらい気が休まった。それなので家族以外の前で、おかしい姿を見せることはなかった。

其の④全世界の人が自分を責めている気がしていたけれど

小学4年生〜。これはいつ頃までそうだったかわからない。波があって、成人してからもこんな事があった気もする。

一番ひどかったのは、小学生〜中学生で、この頃は人間だけじゃなく、壁やタンスやカーテンなどの無機質なものや、猫や犬などの動物までが自分を責めていると思えてならなかった。

それなので我が家には猫がいるのだけれど、そういう気分の時に猫にじっと見つめられると「こっちを見ないでよ!」と泣きながら怒鳴って、その当時はまだ猫も若かったので向こうも喧嘩を売られたと思って、なぜか取っ組み合っていた。

其の⑤全世界の人に笑われている気がして外食ができなかったけれど

小学6年生〜中学2年生ころ。おそらくこのくらいの頃。その当時飲んでいた薬の影響なのか、単に精神的に不安定で過食気味だったのかはわからないけれど、小学5年頃まで恐竜を恐れて拒食気味だったせいでガリガリだった私は、この頃「お相撲さん」と妹に言われるくらいに太っていた。

1日にヤマザキの甘い菓子パン(5個入のやつ)を1袋にポテチを1〜2袋、アイスを1カップ〜…と常に何かを口にしていた。その上引きこもっていたので動かない、動かない。(基本的に引きこもっていたけれど、たまに母や妹、親友に連れ出してもらっていた)

途中まではそれまでが細かったので太っている自覚がなかったけれど、どこかでその自覚が芽生えてそれ以降は、たまに外へ出掛けた時に、どこかで笑い声がすると、その対象が自分な気がしてならなかった。

其の⑥1日中空想(妄想)がやめられなかったけれど

中学1年生〜17歳くらい。中学の3年間は性的な妄想でも悩んでいたのだけれど、それとはまた別に、自分にとって都合の良い世界に「空想の友達」がいた。

平日の日中は家に自分しかいない事が殆どだったため、私は自分しか居ない家の中でその空想上の友達と口パクで会話をしていた。

それが何にもならないとわかってはいたけれど、その友人たちと話すことをやめると、やはりとても寂しかった。寂しくて虚しくて、そうなると自傷行為に走ってしまうから私はそれをこういう方法で抑えていた。

時間を無駄にしているような気はしていたけれど、私はその頃ほんとうにその友人たちに救われていたのだと思う。その友人達とお茶をしたり、何時間も様々な事を話たりしたことは、案外いい思い出として私のなかには残っている。

其の⑦自分の考えている事が周囲にだだ漏れだという思い込みが抜けなかったけれど

小学4年生〜20歳ころ。これは1番長く悩んだ問題だったかもしれない。まず不登校になって周囲の全員から責められている気がして、自分を責めるようになると、罪悪感が常に自分にまとわりつくようになった。

日中、ひとりで部屋にいるとふっとこんな画が見えた。クラスメイトや見ず知らずの人が自分の事を水晶越しに見ていて、見世物にして笑っているというものだ。

「科学的にありえない」とか「盗聴や盗撮は犯罪なのだから、絶対にありえない」と考えるのだけれど、どうしてもその妄想は抜けなくて、家にほんとうに誰も居ないのを確かめてから、私は大声で「もうやめて!」と叫んだ事があった。

この妄想は、言葉にするのが難しいのだけれど、2つパターンがあって、1つは「実際に私の様子をみている」というものでもう1つは「私の考えを覗いている」というもの。

その後も、その妄想は抜けなくて、19歳になってアルバイトを始めたときも、そのせいで色々と良くない噂をされているような気になって、人とまともに会話ができなかった。

これは確かに妄想だったと、その後で色々と「実験」をしたり人と会う中で「もし私の頭の中を見たり出来ているのであれば、こんな風に言わないはず」などと考えられるようになった事で、少しずつ良くなって今ではちっともない。

けれどこの妄想に悩んでいた時にはそのせいで、自殺を考えていた。「たとえ妄想でも、一生こんな事を悩み続けるのなら」と。

其の⑧微笑まれるとその人が自分を憐れんでいる気がして情けなくてたまらなかったけれど

19歳〜20歳くらいかな。アルバイトを始めたての頃。其の⑦に書いたように、私は自分の考えを覗かれたり、自分の普段の様子を見られている気がしていたので、アルバイト中などに微笑まれたりすると、憐れまれている気がしてしまい情けなくなっていた。

情けなくって身体中の力が抜けて、泣き出しそうになっていた。

正直、自分が「憐れ」まれると思っていた事に、自分で驚くけれど。

其の⑨なぜか家に帰れずに毎晩泣きながら彷徨していたけれど

19歳〜21歳ころ。アルバイトを始めて、外に出られるようになると今度は帰れなくなった。詳しくはnoteのマガジン「エッセイ🌼」に入っている「家に帰れない病」に書いてある。

この頃は本当に自分でもわけがわからなかった。わけがわからないけれど、帰るのがなぜかすごく恐くて、誰かがぽんと肩を叩いて「大丈夫?」と言ってくれるのを待っていた。

それで自分の日常がぱっと孤独じゃなくなる事を。そんな事はあるわけない、と思いながら。実際、待っているだけではやはり変わらない。それでもそこから抜け出す策はあった。

其の⑩人の背中を見送るとなぜか恐怖に駆られていたけれど

19歳〜22歳。アルバイトを始めた頃〜去年の5月くらいまでかな。最初にしたそのアルバイトっているのがコンビニ店員だったのだけれど、コンビニって当然買い物をしたら皆すぐに帰っていく。

「ありがとうございましたー、またどうぞお越しくださいませー!」

と言いながら、お客様は当然振り返ることもなく店を出ていく。その人達がどこの誰かなんて当然知らない。でも自分が悪いことをしたから離れていかれているような、そして二度と戻ってこないような、そんな絶望的な気分になっていた。

お客様一人一人にそんな気分になっているものだから、当然精神はすり減って、泣きべそをかきながらどうにか仕事をしていた。今になって、私始めは仕事が全然できなかったけれど、あんな精神状態でよく頑張ったなぁと思う。自分がクズだと信じ込んでいたから理不尽な事を言うお客様に当たられてもそれを当然だと受け入れられたのと、生きたいという気持があったから、そのためには周りにどう思われても仕事をしなきゃいけない、と思えた事が大きかった。

其の⑪お酒を飲み始めると、潰れるまで飲むのをやめられなかったけれど

22歳の3ヶ月。昨年(2019)の3月〜5月。そのせいで周囲に随分迷惑をかけた。この3月に初めて一人で隣町の居酒屋へ行って、そこへ通うようになったのだけれど、これプラス「家に帰りたくない病」がまだ少し残っていた事や他にも色々と理由があって、この3ヶ月でその居酒屋で色々とやらかしてしまった。

この3ヶ月の後も月に1・2度行くことがあったけれど、その3ヶ月間の行いが悪すぎたせいで、色々と噂をたてられていたらしく、8月以降に度々それを思い知る事になって、今はもう行っていない。その居酒屋に関係する人の連絡先も消した。

けれどこの頃は、お酒を飲めば日頃の悩みや寂しさを忘れる事ができた。お酒を飲むとかまってくれる人達がいて、私は結局人の表面しか見ていなかったのだと思う。その人達が腹では何を考えているかなんて想像せずに、その場だけ楽しければ良いと思っていた。

適切な距離と誠実な礼儀は誰に対しても持つべきだな、と反省した出来事。

其の⑫はっきりと断るのが苦手だったけれど

〜23歳。はっきりと「嫌」と言ったり「私はこう思う」と言えなかった。それは場合によって理由が違う。例えば傷つきやすい状態にある人には今も強く言葉を言えないけれど、それだけならともかく、

例えば何も考えずに異性の家についていってしまった時、気づいたらキスされていてその先に手が伸びてきた時、相手に全く興味はないし、気持ち悪いとさえ思っているのに、①自暴自棄になってしまったり②相手によっては、咄嗟に、殴られるかもしれない、と思ったりする。そのせいで何も答えず、言わずに、応じてしまって結局傷ついてということが幾度かあった。

それで一時期は電車に乗れなくなったり、町中をまとも(不安なしの平常心)には歩けなくなったり、自分が汚れて思えなくなったり、誰にもまともに相手にはされない気がして気がつくと死ぬことを考えていた。

警戒心がなかったり、何度もそういう事があったのに学習しなかったり、そういう自分にも非はあると思って、だから辛かった。

そしてようやくそれから立ち直った頃、人づてに自分と関係を持った男たちがそれを口外していた事を知った。「人に知られて嫌な行いはするもんじゃないな」と思う。けれどその時はその内容がとてもショッキングだった。

そういう事があって、私は嫌なときには「嫌」、相手に襲われそうになった時気持ち悪いと思ってそれを口に出すことは悪いことではないということ、人に相談したりする時にも(相談するからには信用はしているのだけれど、それでも万万万一裏切られたらと考えてしまって)「内緒にしてね」と言う事もきっと自分を守る上では大切だという事、を学んだ。

相手を傷つけたくない気持はあるけれど、それで自分が死を選ぶくらいに傷つくなんて事、あって良いとは思わない。思わなくて良いはず。

其の⑬その他色々

ここまでに書いた12個以外にも色々とあった。例えば

・電話の音が苦手で、家で電話が鳴るとカウンターの下に隠れたり、布団に含まって耳を覆ったりしていた。バイトを始めてからも電話が鳴るとびっくりして跳ね上がったりして、電話を取ることは恐くて仕方がなかった。⇛けれどその事を知られたくなくて、「電話対策メモ」を作って練習するうちに慣れた。

・自分の笑顔が苦手で、でも笑いのツボは浅いので、笑う時は顔の下半分を両手で覆っていた。⇛鏡を見て笑顔の練習をしたり、自分の笑顔のどこが嫌でどうしたら良くなるかを考えて、眉毛を剃ったり顔のマッサージをしたりするうちに良くなった。

・人に笑われている気がしていると感じるようになった頃から、自由に服を着られなくなった。元々は服装にはこだわりを持っていたのだけれど、それができなくなっていった。⇛ダイエットをした事もあるだろうけれど、色々な人に会ったり、様々な人の話を聞いたり読んだりするうちに自信がついてきて、最近ようやくまた少しずつ自分で選んで着られるようになってきた。

・20歳くらいまで、人とまともに話せなかった。それまで家でもあまり人に声を掛けられる事がなかったので、アルバイト先で同じ時間帯にシフトに入ってた主婦の人にバックヤードで声を掛けられても、そもそも自分に声を掛けてくれているのだと気がつけなかったりした。気がつけても、「あ」と言うばかりだった。自分の言葉を最後まで聞いてもらえると思えなくて言葉を発するのが怖かった。⇛きっと慣れると思い、色々な人に会って話すようにしたり、バイト先でも一言でも話すように決めてみたら少しずつ話せるようになった。

それから成長したいまの悩みと今後への想い

振り返ってみて、ほんとうに変われたなぁと思った。その苦しみの渦中にいる時にはまさかそこから本当に抜け出せるなんて思わなかったのに。諦めなければ、案外、変われるんだ、と思った。

いや、様々な環境が、もしかしたら私はラッキーだったのかもしれない。そんなことはわからないんだけれど。

10代の頃や、昨年よりはずっと自分を責めていないし、そういう意味ではすごく楽。自分も発言する自由・感じて傷つく自由のあるひとりの人間だ、と思えている。

そんな今の悩みは、それでもやっぱり自己肯定感が低いらしいこと。そのせいできっと有りもしない妄想をしてしまったり、きっと他の人からしたら気にするでもないような事で必要以上に羞恥心を覚えたり、自分を責めたりする事がある。その自覚はあって、だからもっと気楽に構えて、のびのびと生きたいと思う。

のびのびと生きるためにはあとすこし、頑張らなきゃいけない。

それが今の悩みで、今は頑張るしかないのだけれど、それでもそのせいで時々とても辛くて苦しくなる。

でもこれだけ変わってこられた私だから、きっとこれからもっとずっとポジティブで奔放に生きられるようになっていくはず。

と、そう思って頑張ろうと思う。

まさかこんなに長文になるとは思わなかった。ここまで読んでくださった方がもしいたら、お付き合いいただき、ありがとうございました。

最後に最近知った好きな言葉をひとつ置いていきます。

「Aal iz well.」

インドの映画「きっとだいじょうぶ」の劇中歌で、その意味は「きっとだいじょうぶ」。

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