アイスクリームと脱走者/3
3.で?「した」
彩夏のアパートでシングルベッドの両端にそれぞれもたれ、缶ビール片手にくつろいでいた。
あとはもう寝るだけ。彩夏は彼氏と電話をしていたけれど、長電話が苦手な彼女は五分もしないうちに通話を終えた。
スマホを脇のデスクに置き、彩夏はビールの缶を持ち上げる。空だったのか、二、三度振って諦めたように缶を置いた。
「千尋、一口ちょうだい。開けても飲みきれないし」
手渡したビールを律儀に一口だけ飲むと、彩夏は缶を返すのと同時に「で?」とわたしの方へにじり寄った。
「で、って?」
「だから、話したくないなら別にいいんだけどさ。じゃあ、波多君のこと話してよ」
「高校の?」
「うん」
「じゃあ、ミサト、ブス事件」
なにそれ、と彩夏がわらった。本当はヒロセさんのことを話したいけれど、昨夜の初めての体験を、彩夏相手に喜び勇んでペラペラ喋るのは間抜けな気がした。彼女はたぶん、何人もの男性とそういうことをしたことがあるはずだった。
秋のテニスコートでの出来事を、わたしはネタっぽく話した。彩夏はいちいち「へえ」とか「マジ?」と相槌を打ち、時おり手を叩いて笑った。波多君の話というより、わたしのコンプレックスを打ち明けただけだったけれど、なんとなく気持ちが軽くなった。
「千尋はカワイイっていうより平安美人だよね。生まれる時代を間違えたか、生まれ変わりのどっちかだよ」
「それってフォロー? カワイイとか言われても社交辞令としか思えないからいいけど」
彩夏は体をこちらに向けて、顔相でも見るようにじっとわたしの顔を見つめた。
「ブスだなんて、小学生みたいなこと言ったね、波多君。すっぴんはおてもやんだけど、千尋は化粧映えする顔だと思う」
「やっぱ褒めてないじゃん」
「褒めるとかキャラじゃないから」
電気を消し、クッションを枕にフローリングに敷かれたラグに寝転がる。ベッドで横になった彩夏が、暗がりの中こちらを見つめていた。
「ね、千尋。ヒロセさんのこと、聞かない方がいい?」
彩夏の声はすこし緊張しているようだった。わたしは一言「した」と答えてタオルケットを頭からかかぶった。
「そうなんだ」
彩夏のつぶやきは耳に届いたけれど、彼女がそれ以上何か言ってくることはなかった。
わたしは、「ブス事件」の翌年、夏期講習で波多君と同じ教室になったことを思い出していた。
挨拶しかかわさなかったけれど、教室の端でたむろしていた男子の中で「陽菜乃先輩と別れた」と彼が気落ちしたトーンで話していた。詮索しようと質問攻めにする男子達に「しょうがないよ。終わったことだし」と乾いた笑い声。
波多君が泣いてはいないだろうかと思いながら、耳を塞ぐようにわたしは目の前の女子との会話に集中した。
ユカから聞いた話だと、陽菜乃先輩はその年の春に東京に行ったらしかった。遠距離恋愛は難しいのかな、そんなありきたりなことしかわたしの頭には浮かばなかった。
次回/4.家の中は
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アイスクリームと脱走者【完結】
長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。
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