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アイスクリームと脱走者/35


35.酔いつぶれた奏さん

「あ、千尋ちゃん。そこのドア開けてもらっていい?」

 背の高いボーズさんは前かがみになって奏さんを支え、歩きにくそうだった。奏さんがふらつくたび、倒れないように足を踏ん張っている。

 わたしはノックもせず慌てて男性用トイレを開け、二人は倒れ込むように中に入っていった。声を掛けようとしたけれど入れ替わりに人が出て来て、その場を離れた。

 近くにあったスツールに腰かけると、バタンと音が聞こえてトイレからボーズさんが出てくる。わたしに気づかず受付カウンターに向かう彼に「ボーズさん」と声をかけた。

「奏さん、大丈夫ですか」

 ボーズさんは引っぱられたように足を止めた。

「出すもん出したら楽になったっぽい。千尋ちゃん、悪いけど水もらって来てくれる?」

「分かりました」と答えると、ボーズさんはトイレに戻っていった。

 水を持って男性用トイレに入るのは気が引け、わたしは男性スタッフに声をかけようと受付カウンターをのぞき込む。後ろ姿を見て、「圭?」と無意識に呼んでいた。

 カウンターの奥で作業していた圭はキョロキョロと首を動かし、わたしの姿を見つけると切れ長の目を大きく見開く。

「千尋、お客さん?」

「うん。圭、ここで働いてるの?」

「見れば分かるだろ」

 言い返したくなるけれど、今は奏さんのことが優先だ。

「あのね、圭」

 口を開いたあと、圭に頼むことを躊躇した。その一瞬の沈黙に圭が気付くことはなく、わたしが奏さんのことを伝えると、グラスに水を注いでトイレに入っていく。空になったグラスを手に戻ってきた圭は、好奇心を隠そうともしない。

「千尋、あの人たちバイト先の人?」

「そうだけど、うまし家じゃなくてオフショアの人」

「ふうん」と、圭は意味深な笑みを浮かべる。

「あれ、例の人じゃないよね。若いし」

 ”例の人”とは、ヒロセさんのことだろう。からかいたいのか、責めたいのか、圭の態度が小憎らしい。

「違うけど、その人も来てる。今やってるの、その人の再婚祝いだし」

「マジ? 何号室?」

「言わない」

「言わなくても分かるよ。あの坊主頭の人、受付したの俺」

「じゃあ、聞かないでよ」

 圭を睨み、表情を伺った。横顔は昨日より血色がよく、見た目は元気そうだ。

「千尋はホント、バカだよな」

 うるさいな、と言うと、圭はフフと笑う。ふと何かに気づいて、圭の顔が接客用になった。

「大丈夫ですか、お客様」

 神妙な顔つきで圭が向かった先に、奏さんとボーズさんの姿があった。わたしを見ると、奏さんは力のない笑みを浮かべる。頬にはほんのり赤みがさしていた。

「ごめん、千尋ちゃん。俺が呼び出したのに。せっかく来たんだから歌ってきなよ」

「奏さんは?」

 わたしが問うと、「奏、お前もう帰れ」とボーズさんが言う。キョロキョロと時計を探し、わたしもつられてカウンター横の時計に目を向けた。もうじき十一時だ。

「ちょっと眠いだけだから、平気。俺がヒロセさんより先に帰るわけにいかないでしょ」

 ヘラヘラ笑う奏さんの顔は、どこか悲しげだ。

 部屋に戻って、入り口に近い場所に三人並んで座った。ボーズさんは心配そうに奏さんの顔をのぞきこんでいる。みんな変わらずハイテンションで、わたしはテーブルに残っていたポテトをつまみながら手拍子で参加した。肩にフワリと何か触れたと思ったら、奏さんの頭がズルズルとのしかかってくる。

「あ、ごめんね千尋ちゃん」

 奏さんはハッと頭を起こし、酎ハイに手を伸ばした。わたしがそれを取り上げてウーロン茶を渡すと、素直にゴクゴクと飲む。そのあと、突然立ち上がった。フラフラと今にも倒れそうで、わたしとボーズさんが慌てて両側から支えた。

 奏さんはわたしたちに構うことなく、テーブルに転がっていたマイクを掴みスイッチを入れる。

「ヒロセさん!」

 あまりに大きな声で何人かが耳を塞ぎ、わたしとボーズさんも片手で耳を抑え、互いに顔を見合わせた。


次回/36.涙とハイタッチ

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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