アイスクリームと脱走者/1

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1.再会

 
 九月のはじめ、大学前通りに面した居酒屋うまし家の店内は、深夜にもかかわらずムンとむし暑い。わたしはまだ夏休みのまっただ中、アルバイトにいそしんでいる。大学二年の夏は長い。

「あっつ。誰かクーラー切ったのかよ」

「なんでこんな暑いかなー。もう九月なのに」

 うまし家はウマシカと読む。ウマシカ、馬鹿、つまりそんな由来だ。

 着替えをすませたスタッフたちは、店長ご自慢の一枚板の桧でできたカウンターで、思い思いにくつろいでいた。

 わたしは同じ大学に通う彩夏《さやか》の隣にすわり、ぼんやりとスマホをいじっている。SNSを開いて、ふと指が止まった。それを見ていた彩夏が、ぐいとわたしの肩を押しのけて画面をのぞき込む。

 そこにあったのは、彩夏が昨日の夜中に送りつけて来た写真。

「まっさか、千尋《ちひろ》が波多君と知り合いだったなんてねー。学校ではほとんど話したことなかったから、波多君があっちの店にいるなんて驚いた」

「驚いたのはこっち。波多君がバーベキューに来てるなんてマジ不意打ちだし。しかも、彩夏とゼミが一緒なんてありえない」

 高校のときの同級生だった波多君が、うまし家の姉妹店、『オフショア』のスタッフだと知ったのは昨日のことだ。

 同じ地元の大学に進んだことは知っていたし、大学構内で彼の姿を目にしたこともあった。けれど、彼はわたしの生活の外側の人だった。

 手を伸ばせば届くほどの距離で話をしたのなんて高校以来。むしろ、高校の頃にはありえない近さで彼の顔を見た。

 うあぁ、と声にならないうめき声を漏らし、わたしはカウンターに突っ伏した。チラとスマホを見る。彩夏はこの写真に「証拠♡」という文字を添えていた。

 肉の焼ける煙、ご機嫌に口をあけて笑うわたし、隣に波多君。その距離はゼロ。波多君の首に腕を絡ませたわたしは、バカみたいに頬の横でピースサインを作っている。

 やっちゃった。そんな後悔で写真から目をそらした。記憶はあいまいで、波多君の髪の毛の感触と、彼の匂いがぼんやりよみがる。

 煙草をふかしていた彩夏が、不意にわたしの手からスマホを奪った。

「ふ、ふーん」

 彼女は意味ありげに鼻をならしてわたしを見る。

「何?」

 わたしの返しは投げやりだ。

「昨日さ、波多君、お酒飲んでなかったよね。運転手だったし」

「飲んでないはずだけど、だから?」

 彩夏は頬杖をつき、反対の手でトンと煙草の灰を弾いて落とした。朱色の熱がジワと顔を出す。

「昨日の波多君、ありえないくらいフレンドリーじゃなかった? 大学ではいつも話しかけるなオーラ出てるし、あんまり人と関わりたくないタイプなのかと思ってた」

「は?」

 わたしの声が意図せずひっくり返った。

 波多君の記憶が頭の中に浮かんでは消える。その中に彩夏が言ったような姿はない。

 ただ、ずっと忘れたと思っていたある記憶も一緒に思い出して、わたしは少し気持ちが沈んだ。

「千尋って、今は男の人とも普通にしゃべれるけど、バイトはじめた頃はいかにも男子苦手って感じだったじゃない?」

「まあ、ね」

 彩夏とこのバイトで一緒になったのは大学一年の夏。あの頃のわたしは、今とは比べものにならないくらい引っ込み思案だった。変わったのは、たぶん彩夏のせい。

 実家通いのわたしは、彩夏のアパートに入り浸っている。洗面台には歯ブラシが二本。最近ではわたしを部屋に残して出かけてしまうことも多い。近所にある彼氏のマンションに行っているはずだけど、もしかすると他のマンションにいることもあるのかもしれない。

 彩夏が自分のアパートに男を入れることはない。その理由は「なんとなく」。仲良くなったつもりだけど、彩夏の男関係は未だによく分からない。 

 彩夏はおもしろがるように「だからあ」と声を震わせた。

「あのクールな波多君が、あのテンションで千尋と話してるの衝撃だったんだ。しかもシラフで。高校のとき、絶対何かあったでしょ」

 わたしが答えに詰まると、「いっそ波多君にしたら」とからかい混じりにワシャワシャとわたしの髪をなでまわす。

「ない」と反射的に口にした。

「だいたい、高校の時は全然クールじゃなかったし、わたしはほとんど話したことなかったけど、波多君は誰にでもフレンドリーだったよ。彩夏の言ってるほうが誰なのってかんじ」

「えー、信じらんない。千尋、マジで言ってる?」

「マジマジ。ありえないくらいマジ」

 彩夏はなんとも微妙な顔で眉間にシワを寄せた。

「部活一緒だったし、テニス部のムードメーカーだったし、先生とか保護者とか、大人からも可愛がられてた。たぶん女子にもモテたんじゃないかな。わたしの友達も波多君のこと好きって子がいたし」

 ふうん、と納得していないような相槌が彩夏の口からもれた。

「やっぱ千尋の言ってること信じらんない。それとも大学入って変わったのかな」

 学校での波多君の姿を思い浮かべているのか、彩夏は天井に視線をさまよわせた。

「分かんない。部活引退したら関わりなかったし」

「高校んときカノジョいたの?」

「あ、うん。そういえば……」

 ふと思い出したことがあり、口にしようとしたとたん店長の声が響いた。

「よーし、終わった終わった。解散だ、かいさーん。クーラーちゃんと切っとけよ」

 帰ると言いながら店長は煙草に火をつけ、それを合図にスタッフたちはガタガタと音をさせて椅子から立ちあがった。

「店長、明日の朝行きますか? 波いい感じっぽいですよ」

 社員の奏《かなで》さんは店長にウキウキと話しかけている。そのテンションが感染したように、店長もヘラと頬をゆるませた。

「ちょっとヒロセにも聞いてみるわ」

 レジの横の電話をとりあげ、店長はボタンを押した。オフショアにかけているのだろう。

「もしもし、お疲れ。うん、俺だけど、ヒロセのやついる?」

 ニヤつく男二人をながめていると、彩夏がわたしの脇腹を肘で小突いた。彼女の視線を、わたしは素知らぬフリでやり過ごす。

 彩夏の言いたいことはわかっていた。ヒロセさんのことだ。

 ヒロセさんはうまし家とオフショアの料理を取り仕切っていて、ふたつの店舗を行き来している。そして、三ヶ月前に離婚してから一人暮らし。

 ヒロセさんが離婚する少しまえ、うまし家のカウンターで奥さんと話したことがある。エスニック系ファッションの似合う、サバサバした女のひとだった。ココナッツの匂いがして、たしかサーフィンをやっていると言っていた。

 わたしが無視していると、彩夏がツンとティーシャツの裾を引っ張った。

「お先でーす」

 愛想たっぷりの彩夏の声につづき、わたしも「お先です」と口にして裏口へ向かう。奏さんがヒラヒラと手を振って、わたしも同じように手を振り返した。年上には見えない、ちょっと不思議なひと。

 店の裏にあるスタッフ駐車場で、彩夏はようやくわたしのティーシャツから手を離した。足を止め、クルリと体ごと振りかえる。

「千尋」

「なに?」

「昨日、ヒロセさんちに一人で残しちゃったけど、大丈夫だった?」

 背後でドアの開く音がし、話し声が聞こえてきた。どちらからともなく歩きだし、いつも通り隣のコンビニへと足を向ける。

「べつに、話したくなかったら聞かないよ」

「うん、まあ、あとで話す」

 わたしたちはコンビニで夜食とお酒を買い、彩夏のアパートに向かった。

 道の両側にあるのは学生向けのマンションばかりで、草むらなんてどこにもないのに、リー、リーと虫の声が聞こえてきた。

 見上げると、昨日見たのと似たような星空がある。ふと、下腹部に疼きをおぼえ、昨夜のヒロセさんとのことが、頭の中どころか全身を侵食するように生々しくよみがえる。

「おなかへったー!」

 二階建てのアパートはもう目の前にあり、わたしはいてもたってもいられなくなって走り出した。

「千尋、近所メーワク」

 呆れ声の彩夏に「ごめーん」と笑い返しながら、アパートの外階段を駆けあがった。ヒロセさんのことで頭はいっぱいのはずなのに、なぜか不意をつくように波多君の顔がチラついた。


次回/2.酔っぱらい

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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