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アイスクリームと脱走者/20


20.熱にうかされて

 美月さんたちのシェアハウスを出て駐車場まで送ってもらい、自分の車で家に帰った。寝不足のせいもありダラダラと過ごし、夕方になってアルバイトに向った。

 フロントガラスに吹きつける雨はワイパーを最速にしても追いつかず、木々はザワザワと風に煽られている。車で大学の前を通ると、屋外イベントは軒並み中止になったようだった。

 駐車場から傘を握りしめて歩き、うまし家の看板が見えたころにはびしょ濡れになっている。せめて靴下くらいとコンビニに向かい、横殴りの雨に追いやられて店に入った。

「あ、……ヒロセさん」 

 レジを終えたばかりのヒロセさんは、驚いた顔でわたしを見ている。

「千尋ちゃん。ずいぶん濡れちゃったね」

 ヒロセさんは当たり前のように手を伸ばし、わたしの頬に貼り付いた髪を耳にかけた。わたしは逃れるように下を向く。

「靴下、買いにきたんです。ヒロセさん、今日こっちですか?」

「いや、これからオフショアに戻る」

 ヒロセさんはそれだけ言って黙り、わたしが不安になって顔を上げるとじっとこちらを見ていた。彼は「昨日、寝てた?」と小声で囁く。

「朝起きて着信に気づいたんですけど、もう仕事出てるかなって」

「そっか。じゃあ、仕方ないね」

 レジを終えた客が側を通り、ヒロセさんが一歩わたしに近づいた。

「今日、終わってから来ない? 奥さん実家だし、嫌なら外でもいいけど」

「今日は、彩夏と約束があるので」

 ヒロセさんは「残念」と口にして、まわりに分からないように手を握った。その手はすぐに離れる。

「じゃあ、また今度」

 ポンとわたしの肩を叩くと、ヒロセさんは店から出ていった。自動ドアが開き、冷たい風が吹きつける。手はかすかに震え、寒さから逃れるようにギュッと自分の体を抱きしめた。

 更衣室の隅の突っ張り棒には何枚か濡れた服がかかっていて、わたしもそこにパーカーをかけた。乾燥機代わりなのか、エアコンが点けっぱなしになっている。

 ホールに出ると、美月さんと彩夏がテーブルセッティングをしていた。

「おはよ、千尋ちゃん」「おはー。千尋、おそーい」

 彼女たちに手を振って、わたしはキッチンへ向かった。彩夏の笑顔が見れたことに、ホッとしていた。

 気が緩んだのか、暖房のせいか、頬のあたりがホカホカと熱くなってくる。頭がぼんやりするのはきっと寝不足のせいだ。

 雨の影響なのか予約のキャンセルがいくつかあり、キッチンはいつもよりのんびりしていた。普段であればコース料理の準備に追われている時間帯なのに、隆也さんは真剣な眼差しで包丁を研いでいる。

 開店しても客足は鈍く、わたしはカウンターでグラスを磨いた。彩夏と美月さんは奥の座敷で座布団カバーを交換している。他のスタッフがしているのも暇つぶしみたいな仕事だった。

 ロンググラスを磨き終え、隣にあるタンブラーを手に取ったとき、ようやくドアベルがカランと鳴った。風雨に追いやられるように、ドヤドヤとお客さんが入ってくる。

「いらっしゃいませ」

 わたしの声と、ガラスの割れる音が同時に響いた。手の中にタンブラーはなく、足元に散らばるガラスの破片がキラキラとダウンライトを反射している。

「失礼しました」

 慌ててしゃがみこむと視界が歪み、作業台に手をついた。脇にあった生ビールの樽にお尻をのせたが、視界が徐々に暗くなっていく。立ち上がれそうになかった。

「千尋、大丈夫?」

 彩夏の声だった。

「彩夏はお客さん頼む。千尋は奥に連れて行くから」

 朦朧としながら、店長の肩にもたれて立ち上がった。なぜか、すぐ傍で波多の声がする。

 ミサト、大丈夫か?

 波多、休みなのにどうしているの? 

 浮かんだ疑問は言葉にならず、意識からもすぐに消えてなくなった。

 みんなに迷惑かけちゃう。運転。帰れるかな。迎え。タクシー。車置いて帰ろうか。明日には治るかな。また愚痴聞かなきゃ。心配ばかりかけて母さんのほうが倒れそうよ。面倒くさい。もういい。どうでもいい。

 更衣室の隅で壁にもたれかかり、毛布にくるまって、脳みそを掻き回されるような頭痛に堪えていた。揺れる視界から逃れ、目を閉じる。

 誰かの手が額に触れた。冷たくて気持ちがいい。

「熱っぽいね」

 波多の声だった。

「波多、休みだよね?」

 今度はちゃんと言葉になった。彼の姿を確認しようとするけれど、目は半分しか開かない。顔を上げる元気もなかった。

「サークルの連中と飯食いに来たんだ。雨のせいで大学祭が早く片付いちゃったから」

「そっか」

 吐いた自分の息が熱く、手足が自分のものじゃないみたいにフワフワして、肩がズシッと重い。

 波多の顔が見えたのは、彼がしゃがんで覗き込んでいるようだった。心配そうに眉が歪んでいる。

「ちょっと待ってて。俺、車回してくるから」

 姿が消え、ドアの閉まる音がした。足音がバタバタと遠ざかって行くと心細さをおぼえる。

 しばらくして、わたしは店長におぶわれて裏口から出た。車の助手席に座らされ、リクライニングはほぼ水平に倒される。雨と風はおさまる気配がなかった。

 店長と波多の話し声が聞こえる。

「じゃあよろしく頼む。ナビ通り行けば着くはずだから。家には連絡したけど、これ千尋んちの電話番号。俺の家までは分かるだろ。そこからすぐだから、分からなかったら電話してみろ」

「はい。じゃあ、送ったらまた戻ってきます」

 エンジンの音が大きくなり、ガタンと揺れて道路に出たようだった。流れていたラジオのボリュームが小さくなる。

「ミサト、しんどくなったら言えよ」

「うん」と答えたけれど、聞こえたかどうか自信がない。体の真ん中へんが寒くて、毛布をギュッと握って首をちぢめた。車の停まる気配があり、そのあとフワリと何かが体を覆った。

 波多の匂いがした。夏の、夜の海の匂いだった。わたしの記憶にあるのはここまでだ。


 また夢を見た。

 手に持ったアイスクリームはぜんぶ溶けて、どこかに流れていった。獣たちも、小人もいない。涙がポロポロこぼれて、アイスと一緒に流れていった。


次回/21.もうヤダ

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長編小説/全62話/14万5千字程度/2017年に初めて書いた小説です。

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