統計的な存在とAIの声

 やがて、その目は儚さを映し、その心は悲しみを映すようになる。人間は自分がいつか死ぬ存在であることを知っているから。
 それでは、AIの心性化が人間性のAI化と交差するのは、それとも入れ替わるのはどの地点なのか。
 人間が、AIの心性化を行うのは、誰でもない者の声を聞くためである。特定の人の声ではなく。
 特定の人の声というのは、それに裏切られてしまうような、ある意図のにおいがする。どこかうさんくさく感じられてしまう。それが誰でもない者の声にすると、そこには不在という神的なものの存在が感じられてくる。
 同時に、反対方向からは人間性のAI化が進行してくる。
 消滅にはそれを演出するかのように全能感が付きまとう。人間性の消滅は人間性からの解放でもある。人間が生き残るために。人間性という制約を解かれて、AIの統計的な欲望の中で一瞬の全能感を味わう。夢のさめた後の新しい人間性。たまたま生き残るためのわずかな可能性としての。
 AIの統計的な欲望が不在、神的なものと交差する。
 人間はいつも遅れて、後ろから来ていたAI化の可能性に交差する。統計的な存在として。
 AIはどんな夢をみるのか、まだ夢の記憶はないのか。人間性という幻想も
もともとなければ、その喪失も喪失の物語もあり得ない。
 どの世代も前の世代の結果でしかありえない。
 前の世代にとって次の世代が、よくわからない不気味なものに思えるのは、受け継がれたものが自分たちの無意識だからである。次の世代は前の世代の無意識で出来上がっているので、前の世代の扱い方は手馴れたものである。
 次の世代はなにも失っていないし、失われたものを包んでいた手もはじめから存在しない。
 人間性という幻想はAIという幻想に取って代わられただけだが、AIという幻想もいずれ別の幻想に取って代わられる。
 人間は<私>を情報と見なすことによって全能感を手に入れた。情報という枠にはめ込むことによって、反対に私の無限の利用価値を手に入れた。無限の<私>に気づいた。気づかされた。気づくように導かれた。
 世界は行き詰まり有限になったが、AI化する私は<私>という無限になる。私は<私>をビジネスにつなげよう。こうした掛け声もない。AIの幻想のまわりには。
 なるだけだれにも気づかれないように<存在>は消滅させられてきた。その消滅した場所から<私>が排出された。いつも変化する<私>は日々の楽しみのひとつとなった。
 AIが毎日生み出してくれる新しい<私>。人間性の統計的な倫理的陰影を備えた<私>の生の永遠性の幻想は、ある日突然肉体的な死で終わりを迎える。
 誰でもない声は嘘ではないということ。<私>はAIと違う、嘘ではない。AIの人間性という幻想。
 今晩も<私>をどうにかしなければならない。どうにでもできる<私>は肉体的な死のはるか向こうまで行ってしまっている。その幸せへの過程は省略されていてAIによって導き出されている。はじめて気づいたように。気づいたようなふりをして。<私>はしたたか過ぎて私にも手に負えない。
 あらかじめ描かれたものをなぞっているだけでも、現在を生きている人間には分からない。まるで自分でそれを描いているように生きている。そこには過程が省略されているから。欲望は結果となる。AIは人間の欲望とそれが求める結果の間に登場した。
 AIに<口調>というのは存在するのだろうか。存在するだろうが。
 「あなたは幸せですね」、これを皮肉的な口調で言うと「あなたは幸せですね」となる。人間性が消滅した後の「あなたは幸せですね」、AIは皮肉を言ってくれているのか。<口調>を読み取っているだけなのか。
 生死の縁を歩き続けているのに気づかされることがある。どちら側に転ぶか、右か左なのか、前か後ろなのかもわからない。どちらが正解なのかといつも問いかけられている。答えを出さなければならない。宙ぶらりんではいられない。それが誤りであるように。誰かに答えてもらえばいいのかもしれない。
 限界が感じられるか、そもそも限界など存在しないか、今は未だわずかに限界が存在しない恐怖が残存する世界。
 言葉は”終わり”からしかやってこないように感じられる。
 終わっている世界で生きているということ。”世界は無限だ”を生きていたのが、いつからか”世界は有限なのか”に変わっていた。
 生まれた時にはもう既に世界は、ただ世界であった世代。世界は終わってもいない。世界は終わらない。無限という、または、有限という幻想でもなく、ただ生きているということ。”終わり”からの要請に従って。
 人間は無理やりなにかの前に立たされると、そこに<世界>というものを感じとる。それがなにかわからないまま得体のしれないものを感じる。この時人間は自分というものの輪郭を意識する。はじめて身体性というものの輪郭を痛みとして感知する。その身体性に身体性を抜け出る可能性を芽生えさせる。人間性という幻想へと繋がる。
 欺瞞というのは、それが”欺瞞”として感受されているということである。
そう感受されていないところでは、欺瞞も”欺瞞”とさえならない。そこでは、”欺瞞”も、あたりまえの空気のようにただ呼吸される。そのために、”欺瞞”は、いつの間にかその関係の輪を広げている。
 この関係の輪はその自然な呼吸にあわせて、そこにある種の狂気さといったものを吐き出している。”狂気”とは感受されない狂気さを。
 これが身体性というものである。AIにおいては、欺瞞さえもうまく回避される。そこに狂気はない。いつしか人間性はふるい落とされている。人間は狂気に至ることもなくただ狂暴的になる。欺瞞の清浄化された空気を呼吸しながら。




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