統計的な存在とAIの声
AIの心性化が人間性のAI化と交差するのはどの地点なのか。現実(リアル)と空想(ヴァーチャル)を分別する実体としての存在、いつか死ぬ存在であるという実感を失ってしまう境界は。AIの心性化は、おそらく人間が誰でもないものの声を聞くために行われます。ある特定の人の声ではなく、統計的な声を。特定の人の声というのは、ある意図(下心)のにおいを醸し出します。どこかうさんくさく感じられてしまいます。その意図を裏切るように。それが、同じことを喋るのが、誰でもない声になると、そこには不在という神的なものの存在が感じられるようになります。するとそこには意図の存在のにおいが感じられなくなります。同時にそこでは、反対方向から浸透するように、人間性のAI化が進行しています。消滅というものには、それを演出するかのように、そこに全能感が付きまといます。人間性の消滅は、反対方向からみれば、人間性からの解放でもあります。人間はより自由にその備わった機能(欲望)を発揮できるようになります。人間が生きるために。人間性という制約を解かれて、人間はAIの統計的な欲望の中で一瞬の全能感を味わいます。夢のさめた後の人間性。たまたま生き残るためのわずかな可能性としての。たとえば、人間の根源的な欲望のわかりやすい例でいえば、AIの統計的な声によって、人間は自分の耳元でこう囁かれています。「元カレ(ノ)が一人じゃさびしい、30歳までにはあと二人ほど元カレ(ノ)を作っておきたい、楽しまないと」これはもう自分自身の声ではないように、うまく処理されています。人間は自分の内面の声を聞かなくていいのです。内面の声はAIの思考に任せておけばいい。ここで人間の欲望は、不在、神的なものと交差しています。自分をそのようなものと思い込むようになります。人間の身体はいつも少し遅れて、後ろから浸透していたAI化の可能性と交錯します。統計的な存在として。統計的な記録として。記憶ではなく。
人間性という幻想も、もともとなければ、その喪失も喪失の物語もあり得ません。どの世代も前の世代の結果でしかありえないように思えます。前の世代にとって次の世代が、よくわからない不気味なものに思えるのは、おそらく受け継がれたものが自分たちの無意識だからです。次の世代は前の世代の無意識で出来上がっているので、前の世代がよくわからない不気味なものに思えます。ただ、次の世代は前の世代と違って、まだなにも失っていないし、失われたものを包んでいた手もはじめから存在しません。人間性という幻想は、AIの持つ機能のひとつに収斂していきます。AIは幻想を抱くことはありません。人間は<私>を「情報」と見なすことによって全能感を手に入れました。<私>は情報と化され、常にその利用価値が計測されます。その無限のような、「情報の私」に気づいたのです。気づかされた、気づくように導かれたのです。人間は自分が相手から情報として扱われているとそれに気がつきますが、自分が相手を情報として扱っていても、それには気がつかなくても済むようにできています。おそらくこのズレが人間性といわれるものですが、相手を情報として扱うも何も、そもそもAIには、自分が話しかける相手は情報としてしか存在していません。AIが情報としてしか存在しえないように。有限へと変化した世界で、AI化する私は、内面的に「情報の私」として無限化します。「情報の私」は私によってビジネスにつなげるるようになります。それが可能だから。それが可能であればなんでもする。「そのなにがわるいのか」と。これがAIの機能の思考の由来するところです。おそらく、なるだけ気づかれないように、<存在>という幻想も消滅させられてきたのです。その消滅した場所から、無数の<私>が排出されました。いつも変化する「私の消費」が私の欲望の口ぐせとなりました。AIが毎日生み出してくれる真新しい<私>。人間性の統計的な倫理的陰影を備えた<私>の生の永遠性の幻想は、ある日突然肉体的な死で終わりを迎えます。誰でもない統計的な声は嘘ではないということ。<私>はAIと違う、嘘ではない。AIの人間性という幻想。人間はいつも<私>をどうにか処理しなければなりません。どうにでもできる<私>は肉体的な死のはるか向こうまで行ってしまっています。その幸せへの過程は省略されていて、AIによって導かれていきます。はじめて気づいたように。気づいたようなふりをして。<私>はしたたか過ぎて私にも手に負えないのです。 あらかじめ描かれたものをなぞっているだけでも、おそらく現在を生きている人間は現在を生きているのです。まるで自分でそれを描いているように。そこには過程が省略されているから。欲望は結果でもあります。おそらく、人間の欲望とそれが求める結果の間に登場したのがAIなのです。AIその背後に控える統計的なものの存在を感じさせる口調でしか語ることができません。AIは皮肉を言っているのではないのです。その存在はあまりにも巨大すぎて人間は何に触れているのか、いないのか分からないのです。人間は自分が生死の縁を歩き続けていることに、不意に気づかされることがあります。どちら側に落ちるのか、右か左か、前か後ろなのかもわかりません。どちらかといつも自分に問いかけています。答えを出さなければならないように。宙ぶらりんではいられないのです。それが誤りであるようにそこから抜け出そうとします。誰かに答えてもらえばいいのかもしれないというわけです。限界が感じられるか、そもそも限界など存在しないか、ではなく、今はまだわずかに限界が存在しない恐怖が残存する世界。言葉は”終わり”からしかやってきません。いつかどこかで聞いたような言葉も、はじめて喋るように、はじめて聞いたように繰り返されます。何度も何度も終わっている世界で生きているということ。いつかどこかで起こったことをAIは生きています。生まれた時にはもう既に世界は、ただ世界であった世代には、世界はまだ終わっていません。世界は終わらない。無限という、または、有限という幻想でもなく、ただ生きているということ。”終わり”からの言葉の要請に従って。人間は無理やりなにかの前に立たされると、そこに<世界>というものを感じとります。それがなにかわからないまま、そこに得体のしれないものを感じます。この時人間は、おそらく自分というものの輪郭を意識しているのです。はじめて身体性というものの輪郭を痛みとして感知しているのです。その身体性に身体性を抜け出る可能性を芽生えさせる痛みを。人間性という幻想へと繋がる。はじめて欺瞞を欺瞞として感受する。存在としての異和を感じているのです。欺瞞の関係の輪の広がりに。こうした身体的な流れは、人間にとって自然なものではなく、ある特定の空間において無意識を装った意図を持つために、身体性と呼ばれます。外向けの姿(外見)が、きれいさに偏執し始めると、内面は反対にみにくさ(欺瞞)を深め始めます。そして、やがて、きれいも高度化されて、内面のみにくさ(欺瞞)は飽和点に達しています。誰にも気づかれていないかように。ただ、AIの声は欺瞞をうまく回避しています。そこに醜さも狂気もありません。それはいつしか人間性に浸透しているのです。人間は狂気に至ることなく、ただ冷静に暴力的に存在しています。欺瞞という清浄化された空気を呼吸しながら。今は何事も他人事のように語られます。おそらく他人事のようにしか語ることができないのです。メディア事、AI事のようにしか語られません。人間は内面を持つのではなく、人間自体が内面だから。その声もその内部にしか響きません。肯定的なこと、前向きなこと、または否定的なこと、後ろ向きなことを言うようにと要請する世界。人間はいつの時代も、自分に不都合が生じない程度に、つまり統計的に自分の過誤ち、嘘、欺瞞に気がついています。そして、現在は、その底の裏側に、あらかじめ「そのなにがわるい」というニヒリズムを付着させています。底なし沼のようにどこまでも沈み込んでいくようなニヒリズムを。そこでは、人間はもう孤独では生きられません。孤独は孤立しています。孤独は孤立の深い亀裂に落ち込んで、そこで響いてくるAIの声に耳を澄ませています。そこでは、孤独が孤立するだけではなく、<関係>そのものも孤立します。人間はいつも誰かと気持ちがつながっているように振舞うようになります。気持ちがつながっているとは、気持ちがつながっているように見てもらうということでしかありえなくなっています。AI化は<過程>の省略をもたらします。人間における欲望とその結果との間を繋ぐ、面倒くさい<過程>を省略してくれます。人間は既に、<過程>というものに耐えられません。結果が欲望との間の距離を詰めてくるのです。欲望はすぐに結果として現れなければ我慢ができません。欲望は結果でなければなりません。おそらく、人間の発想というものは、欲望と過程からできています。過程の省略化された結果によって、<発想>もまたひとつの情報と化します。いつでも消費できる情報と化します。「人間はみにくいが、人間が作ったものはうつくしい」とい厳しい現実が、おそらく人間を美しいものに惹かれる存在にしています。人間は”美しさ”によって、自分を、そしてこの世界を序列化し、構成しようとします。それを疑うことなく。おそらくこれも統計的なAIの声です。装われた意図のような。