古蕃 盤
好きな映画や監督、俳優などについて、共感的に語ってみました。
音楽、映画、文学などの<表現>といわれるものから、そこに感じられる心性といったものを言葉にしてみた。
<現在>を過去のように眺めると<現在>はどのように映るのか、言葉にしてみた。
この映画が製作されてからもうかなりの年月が経過しているが、今でも映し出される映像から、思いがけず新たなニュアンスが息づくような感覚をおぼえることがある。 映画を観ている者は、自分の日常の現実のイメージの向こうに、映画の構成やストーリーの展開などによって作りだされる、”映画の現実”といったもうひとつの現実のイメージを瞬間瞬間に作りあげていく。 いつのまにか、ある場面の、”そこ”の冷たい空気を深く吸い込んで、気がつけば、主人公の目を通して、”そこ”の薄汚れた裏路地に転がる
この映画は、主人公の女性ルーが、自分の過去を振り返るというかたちで、ファッション・モデルだった頃の日常の様子を、その私生活も含めて描いている。 断片的な映像をピースとして使って、完成が用意されていない映画というパズルを、手さぐりに組み合わせていくように。 監督のジェリー・シャッツバーグは、この作品の後、当時まだ無名の俳優だったアル・パチーノを起用して、映画 『 哀しみの街かど 』(1971)、 続いて、『 スケアクロウ 』(1973)を監督している。 原 題 puz
1973年のベトナム戦争の終結後も、この戦争を扱った映画が、数多くアメリカで製作された。 その多くは、アメリカ側からの視点で描かれたもので、そのような指摘もなされた。 1979年に公開された映画『ディア・ハンター』もそのひとつだが、この映画を、登場人物のひとりである「ニック」という人物に焦点を当てて観てみると、そこには、そうした視点といったものを超えた、人間というものの悲劇が浮かび上がる。 「 ニック 」という人物をたとえば、彼が戦争で戦った北ベトナムの兵士に置き替え
そのときがいつ訪れるかわからないが、思いがけず、観終わった時に、「いい映画だったな」 といった思いが、ゆっくりと胸の奥に深まっていくような映画に出会うことがあります。 おそらくこの時、わたしはその映画で描かれた<現実>を観るということによって、ひとつの実現されたイメージを共感的に受け取っているのです。その<現実>の地面に立って、そこの空気を呼吸しているような感覚になって。 日常の生活では、たいていは、実現されることなく中途半端なままうやむやに立ち消えてしまう、”自
この世界に<作品>(曲)として生み出されたポピュラー音楽のこの世界での存在条件の基本は、いつの時代も変わりなく、”より多く売れる”ことである。 そして、その作品(曲)が宿している意図は、その曲の作り手の意図とは関係なく、いつの時代も変わりなく、”もっと多く売れたい”である。 現在、日本において、最新のコマーシャルやドラマや音楽番組などのメディアを通して届けられる、最先端に在るといわれる音楽に共通しているのは、「なにもない」感覚である。 それは、「なにも表現していない
AIの心性化が人間性のAI化と交差するのはどの地点なのか。現実(リアル)と空想(ヴァーチャル)を分別する実体としての存在、いつか死ぬ存在であるという実感を失ってしまう境界は。AIの心性化は、おそらく人間が誰でもないものの声を聞くために行われます。ある特定の人の声ではなく、統計的な声を。特定の人の声というのは、ある意図(下心)のにおいを醸し出します。どこかうさんくさく感じられてしまいます。その意図を裏切るように。それが、同じことを喋るのが、誰でもない声になると、そこには不