共感的映画論◦映画『ディア・ハンター』
1973年のベトナム戦争の終結後も、この戦争を扱った映画が、数多くアメリカで製作された。
その多くは、アメリカ側からの視点で描かれたもので、そのような指摘もなされた。
1979年に公開された映画『ディア・ハンター』もそのひとつだが、この映画を、登場人物のひとりである「ニック」という人物に焦点を当てて観てみると、そこには、そうした視点といったものを超えた、人間というものの悲劇が浮かび上がる。
「 ニック 」という人物をたとえば、彼が戦争で戦った北ベトナムの兵士に置き替えてみても、この人物の悲劇は誰にでも起こりうるものであることがわかる。
戦争という過酷で悲惨な現実が、そこから逃れようのない人間の内面に、深刻で、想像をこえたような影響を及ぼした時には。
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原 題 THE DEER HUNTER (1978)
監 督 マイケル ・ チミノ ( Michael Cimino )
脚 本 デリック・ウォッシュバーン(Deric Washburn)
主な配役
ロバート ・ デ ・ ニーロ ( Robert de Niro )・・ マ イ ケ ル
クリストファー ・ ウォーケン ( Christpher Walken ) ・・ ニ ッ ク
ジョン ・ サベージ ( John Savage ) ・・ ス ティ ー ブ ン
メリル ・ ストリープ ( Meryl Streep )・・ リ ン ダ
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ストーリーは、1960年代の末、アメリカの地方都市で生まれ育った3人の若者(マイケル、ニック、スティーブン)が 、ベトナム戦争に徴兵されるところから始まる。
北ベトナム軍との戦闘で捕虜になったマイケル(R・デ・ニーロ)とニック(C・ウォーケン)は、ジャングルの小屋に囚われ、毎日、実弾を使ったロシアン・ルーレットを強いられる。
テーブルをはさんで向かい合って座った相手と、交互に、拳銃に一発づつ弾を込め、自分で、自分の側頭部に銃口を当て、引鉄(ひきがね)を引いていくゲーム。
二人は、しばらくして、そこを脱走し救助されるが、ニックは帰国せず、混乱の続く南ベトナムで行方不明となる。
その頃、サイゴンの場末の酒場では、熱狂する観客たちの中で、ロシアン・ルーレットが行われていた。実弾を使い、金を賭けた見世物のゲームとして。
そして、そのゲームのテーブルの片方の席には、いつからかニックの姿があった。
虚ろな表情に、大きく見開かれた目を宙に向けながら、テーブルの上に置かれた拳銃を自分で手に取っていた。
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この映画からは、「ニック」という人物への深い共感が伝わってくる。
その共感によって、ニックは人間という悲劇を体現する、どこにでもいる普通の人物として、深く掘り下げられているだけではなく、いわゆる”人間”として救い上げられている。
ニックと彼が置かれた現実がどんな悲惨なものでも、それが単なる悲惨に止まらず、だれにでも起こりうる悲劇にまで昇華させられている。
この映画に描かれているのが、戦争という悲惨な現実であるにもかかわらず、観終わった後に、感覚的にそこに閉ざされていくような重ぐるしさといったものを感じさせないのは、おそらく、ニックという人物が自分の悲惨な現実に深くうなだれながらも、その現実に抵抗するように完全に閉ざされてしまう寸前の自分にとどまりながら、その姿に苦渋とともににじませる「そのようにしか、生きることができなかった」切実さと、その切実さを貫く表現としての必然性といったものが、監督をはじめこの映画の製作者たちに感受されてその表現の感性となって発現されているからである。
おそらく、ニックにとっては、彼が捕虜になった時の体験は、そのいつかの時点で、彼に死への恐怖が”自分が生きている”ことの生の唯一の実感として倒錯させてしまうほど過酷で濃密なものであったに違いない。それがたとえ倒錯であったとしても彼にとっての実感となっていた。
彼はその実感さえも失われていく感覚の深い恐怖に怯えながらも、毎日観客たちの中でそのゲームのテーブルに着きつづけた。
その実感が恐怖であったとしても、自分をとりまく現実がどんなに悲惨なものであったとしても、そこから感受できるその現実に息づくものの感覚だけが、自分にわずかに残された生の可能性であり、それへの繋がりを失わないために、彼はテーブルに置かれた拳銃に震える重い手を伸ばすことを繰りかえすしかなかったのではないか。
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当時急速に崩壊へ向かいつつあった南ベトナムの混沌とした現実の中で、同様に剥き出しになっていく人間の本性が醸し出す不穏な狂気に満ちた空気を、ニックはおそらく戦争の当事者として、そしてその地に立つ者として、そうするしかないように、そうしなければならないように、そのまま深く呼吸する。
俳優のC・ウォーケンもまた、この人物をそうとしかありえないように演じている。
おそらく、そこに踏みとどまりながら、踏みとどまるしかないように心もとなげに歩みを重ねていくような、このC・ウォーケンの演技によって、この映画に描かれるニックをとりまく現実は、より身近でリアルな息づかいで観る者の目の前に立ち現れてくる。
ここで彼が踏みとどまろうとしているのは、おそらくこの映画の作品としての限度ともいえるもので、いつこの限度線を踏み外して、この映画を作品として破綻させてしまうかもしれないその危うい均衡を保った演技の歩みによって、その背後にはこの映画の<作品>としての輪郭といったものが徐々に現れるように描かれていく。
それは、あらかじめ描かれていたものではなく、その都度少しづつ新たにそれが生み成されていくように。その足元に深くひろがるニックという人物をとりまく<現実>というものの”底知れなさ”の実感とともに。
ニックという人物をとりまくものの底知れなさの実感(おそらく彼にとって身近なものとなった)は、ニックを演ずるC・ウォーケンの演技の歩みの後ろに描かれるこの映画の輪郭(作品という限度)と、互いに交錯するように接触する。
おそらく、そのことによって、ニックという架空の人物に、「今ここで、それにさらされている」ようなみずみずしい輪郭(限界)を与えるとともに、その輪郭の向こうの底知れないこの世界との関わりのなかで、この映画を、人間という存在がみせる無限性と限界性のせめぎあう悲劇的な在りようを浮かび上がらせる、いわゆる<作品>として結実させている。