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能動的に愛することが、自立と貢献による「幸せになる勇気」に繋がる

「嫌われる勇気」は実践が難しい

アドラー哲学を紹介した書籍「嫌われる勇気」は、非常に多くの人に読まれることになった。どんな人でも悩みがちな人間関係というテーマ、そして分かりやすい解き方を示しているからだろう。2013年に発売されて長いことを売れ続け、結果として、2020年初頭のタイミングで国内200万部、海外500万部で計700万部程度売れている。

この「嫌われる勇気」の要約を簡単に述べよう。自分と他人の課題を分離して、重荷を下ろす。次に、自分のあるがままを受け止め、解くべき課題にフォーカスし、他人への貢献感に幸福を感じる。シンプルかつ説得力のある議論で、人間関係と自分の心に平穏をもたらすことが出来そうだと感じさせる名著だった。以下で紹介している。

ただ、実際に日々の生活で実践するのは、そう簡単ではない。私が難しいと感じたことの一つは、共同体感覚を得るということだ。共同体感覚とは、自分の損得を切り離し、さらに他者をありのまま受け止め仲間とみなし、貢献の対象としていくマインドセットをいう。

聖人君子ならさておき、普段は仕事を押し付け合ったり、出世など利益を競ったりしている普通の人にとっては、周囲を安心できる仲間だと思い心理的安全性を持つことにハードルを感じても不思議ではない。

愛が共同体感覚を生む

一見すると話が変わるように思うかもしれないが、愛というテーマに移る。エーリッヒフロム曰く、愛するとは、他人をありのまま受け止め、その人の幸福を願い、自らを与えるいうことだ。この「ありのまま受け止める」だが、それは他人だけでなく、「他人をありのまま受け止めても問題ない」という意味で、自分自身をも受け止めている

つまり、自分が損をするかもしれない環境に陥ったとしても、なんら気にしないというライフスタイルの選択である。これは「嫌われる勇気」で必要とされた、自己受容、共同体感覚と同じ行動を指している。

無償の愛を抱けている時、共同体感覚を獲得していることになる。利己でもなく利他でもない、主語が「私たち」に変わった関係が新たに生まれている。「私」や「あなた」の個別の幸福を交互に満たすのではなく、不可分なる「私たち」の幸福をつくりあげていく関係だ。

不可分な「私たち」と個々の自立

ここで不可分と表現している点に注目したい。ここにあるのは、「私だけ」「あなただけ」という世界を捨て、「私たち」という新しい世界を選択する決意といえる。自我への執着を捨てつつ、相手に与える行為そのものに幸福を主体的に見出す。

なぜ自我への執着を捨てるのか。共同体感覚を得るには、つまり愛するには、自立が必要だからだ。自立とは、他人に依存しないことではなく、自己中心性からの脱却を指す。そして、自分でなく他者への関心事に能動的に興味を寄せるのだ。動物的な本能ではなく、人間の理性と意志で。

これは、自然とそうなるのではなく、人生を貫く態度として能動的に選択するものだ。生まれもった性格は関係ない。誰であっても、ただそう生きると決める「勇気」の話で、外部環境や先天的なものとは独立した、非常に簡単な話なのだ。

担保のない行動と「勇気」

エーリッヒ・フロム曰く、愛するとは、その結果に対して保証がなくとも行動を起こすことである。これは勇気そのものと言える。別の言い方をすると、客観的な根拠のない自信、信念とも表現できるだろう。より良い愛情生活において、パートナー同士の相性を気にしすぎても仕方ない。自分の信念と覚悟こそが求められている。

健全な自己受容ができていれば、損得を考えずに相手に愛を与える勇気を持てるようになるだろう。相手が何をしてくれるかが気になるようでは、相手でなく自分のことだけを考えている世界観を選んでいる。そこには相手を単に自分の鏡として見做す、不健全な自己愛しかない。

終わりに

能動的に愛することで、自立し、共同体感覚を持てる。そして、素直に相手に貢献でき、幸福感を得られるようになる。担保なく与えるという行為こそが、「嫌われる勇気」、最終的には「幸せになる勇気」につながっていく。本書は、何度でも読みたくなる名著の一つだ。




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