強制と評価(比較)が、恐怖と嫌悪、苦手意識を生む

まだ息子が幼かった頃、でも物心がつくようになった頃、海辺に立った。あまりに広大な海に、息子茫然、立ち尽くした。「さあ海に入ろう、大丈夫、怖くないよ」とおじいちゃんおばあちゃんが手を引いたり背中を押したりするけど、そうするとよけいに怖くなるのか、海辺から遠ざかってしまった。

「ああ、小さい頃の自分と同じだなあ」と感じた私は、当時やってほしかった方法を試すことにした。息子の真横に立ち、一緒に海を眺めた。何も言わずに、黙って。
するとしばらくして、息子がほんの少しだけ前ににじり寄った。私も同じだけ前に進んで真横に。するとまた少し前に進んだ。再び真横に。

ついに足先を波が洗うところまで進んだ。すると息子は驚いて、後ろに下がってしまった。私は何も言わず、息子の真横に立った。
するとまたしても前進を少しずつ始め、今度は波が足を洗っても耐えた。やがて慣れたのか、さらに深みへと少しずつ前進した。私はなおも黙って真横に。

胸まで浸かったころ、息子が誇らしげな顔をして私の方を向いた。私は「やったね!」と、息子とハイタッチ。それから息子は、キャアキャア言いながら海で遊ぶようになった。

「手を引く」「背中を押す」というのは、子育てや部下育成においても、とても良い行為であるかのように語られることが多い。

しかし、新しいことに直面して戸惑っている人間からしたら、手を引かれることはギロチンに引きずり込まれる気分だし、背中を押されるのは断崖絶壁から突き落とされる気分。もしここでムリをしようとすると、「不安」が「恐怖」になり、やがて「嫌悪」に変化してしまうだろう。

こうした「嫌悪」するようになってしまうメカニズムは、たとえば勉強でも似ているように思う。一体何の話をしているの?と戸惑っている段階なのに「さあ、では問題を解いてみて」と言われ、当然解けず、そしたら叱られたり「できるようになれ、勉強しろ」と強制されたり。こうして「嫌悪」が定着するのでは。

私は、たくさんのことが苦手な子ども時代を過ごした。父親は才気煥発で短気な人、母親は高校出るまで全教科ほぼ百点で過ごした人だから、私のように出来の悪い子どもの気持ちがいまひとつわからなかったらしい。手を引かれ、背中を押されればされるほど、私は恐怖を覚え、逃げ出し、叱責され、

私はスポーツから勉強から、実に様々なことに嫌悪感を持ち、劣等感を持つようになった。
でも、私も実はできるようになりたかった。勉強で分かるようになりたい。スポーツできるようになりたい。でも、急かされ、強制され、嘲笑われる環境では、どうしてもやる気が起きなかった。

転機は、父の指導方針の変化だった。叱ったり怒鳴ったりしてもコイツはかえって恐怖と嫌悪で動けなくなると痛感したのか、恐怖を解除する方向に指導姿勢が変わった。たとえば、私は水泳が大の苦手だったのだけど、「お父さんも実は水が怖い」と言いながら、恐怖を和らげる工夫を教えてくれた。

「顔をつけて、プカーンとしばらく浮かんでごらん。すると体と心のこわばりがとれてくる。そうなるまでずっと浮かんでいてごらん」
実際そうしてみると、心と体のこわばりがとれて、恐怖が薄らぎ、水遊びをする余裕が出てきた。

そうか、恐怖や嫌悪、苦手意識は何かに取り組む際の大きな障害なんだ、と気がついた。だとしたら、苦手だ、嫌いだと考えていたものも、まずはそこに身を浸し、恐怖や嫌悪が和らぐのを待ち、できるところから挑戦してみる、ということを繰り返してみよう、と思うようになった。それも、様々な分野で。

恐怖や嫌悪、苦手意識というのは、「強制」と「評価」によって生まれることが多いように思う。学校生活の間は体育が大嫌いで苦手だったという人が、大人になって自転車や市民マラソンに目覚める人が結構いる。これは強制されることも評価されることもなく、ただ自分がやってみたくなったからだと思う。

そして、そうやって能動的に取り組むと、その人なりに能力を伸ばす。もちろんプロ並みとはいかないかもしれない。上手とは言えないかもしれない。下手の横好きといわれればそれまでかもしれない。しかし確実に、恐怖と嫌悪ですっかり苦手意識を持っていたときとは比べものにならないほど成長する。

ならば、それは大きな底上げ効果があるのではなかろうか。変に強制せず、変に評価を下し、見下し、嘲笑うことをしなければ、人は恐怖や嫌悪、苦手意識を持たずに済み、その人なりの歩みで挑戦し、能力を開拓しようと試みるようになるのではないか。

赤ちゃんが立つようになったり、言葉を話すようになるのは、その子によってまちまち。でも、多くの子が立てるようになり、話せるようになる。なぜだろう?恐怖も持たず、嫌悪もせず、苦手意識も持たないからではないだろうか。そして何より、「できない」を「できる」に変えることは楽しい。

その瞬間を見て、親が驚いてくれるから。「立った!いま、立ったよ!」と。「今の、言葉だよね?今、言葉を話したよ!」と。親は強制も評価もせず、ただただ子どもの成長を祈りつつ、子どもの様子を観察していただけ。でもだからこそ、その瞬間が訪れたとき。

親は驚かずにはいられない。昨日までできなかったことができるようになったことに。強制したり評価したりもせず、教えることもできなかったのに、子どもがそれらの能力を会得した奇跡に。
そして、その「驚き」が、子どもの成長意欲にドライブをかけるのだろう。幼児はよく「ねえ、見て見て」という。

それは、赤ちゃんの頃から、「できない」を「できる」に変えたり、それまで試したことのない工夫をしてみせたり、新たな挑戦を始めたとき、親が驚くことを知っているからだろう。親が「驚き屋」なことを知っているから、子どもは様々なことに興味を持ち、挑戦するのだろう。

ならば、この子どもへの接し方を改める必要はないように思う。なぜわざわざ、強制と評価と嘲笑うという、人に恐怖と嫌悪と苦手意識を植えつけるようなことをするのだろう?それは子どもの意欲を奪い、挑戦する気を失せさせる、最強の手であるのに。

うちの子らは近所のそろばん塾に通っている。塾生の中には、小学三年生ながらそろばん10段の子もいるという。息子(小6、一級)も娘(小3、6級)も、それには全然及ばないが、楽しんでそろばん塾に通っている。なぜだろうか。誰も比較しないからだと思う。

ただただ、子どもが「できない」を「できる」に変えたとき、驚いているからだと思う。子どもたちが賞状をもらってきたら、壁にそれを貼ることにしている。そろばん塾や学校でもらってくる賞状で壁いっぱい。その様子が楽しくて、誇らしくてそろばん塾に通うのが面白いらしい。

彼らがそろばんを嫌いになるようにするのは、簡単なこと。親である私が他の子と比較し、負けるな、もっと練習しろ、と強制すれば、子どもたちは瞬く間にそろばん塾に通うのがイヤになるだろう。比較され、強制されるのがイヤで。嫌悪感が湧けばやる気が失われ、伸びなくなり、苦手にもなる。

私は、苦手意識というのは、嫌悪感を生むのは、強制と評価(比較)をするからだと思う。そんなことをするからその子は自分のペースで、自分なりのやり方、工夫で取り組むことが難しくなる。なのに外野がヤイノヤイノ言ってくるのがウザ過ぎて、すっかり嫌気が差すのだと思う。

私達は、赤ちゃんや幼児にそう接してきたように、強制や評価(比較)をせずに、ただ驚き屋になっていればよいように思う。そうすれば、その子はあらゆる分野への興味関心を失わず、その子のペースで、その子なりのやり方で「できない」を「できる」に変えていく挑戦をやめなくなるように思う。

人間が思わず赤ちゃんや幼児にそう接してしまう「驚き屋」のやり方は、実は全年齢に通じる手法のように思う。私は、自分よりも年配のスタッフの人にも働いてもらっているが、その能動的な取り組みに驚いていると、どんどん能動的に工夫を重ねてくれて、本当に驚く。

私達は「教育」という言葉を生んだがために、それに変に惑わされ、本能がそうさせてくれていた最高の接し方(驚き屋)を、実施できなくなっているだけのように思う。これまでの教育システムは、もっぱら「助長」をしてきただけなのではないか。

隣の畑より育ちの悪い苗を見て、成長を助けようと苗を上に引っ張ったら、根が切れて翌日全部枯れてしまった、という故事。私達は、教育という言葉に惑わされ、強制と評価(比較)が何か魔法のように効く方法のように勘違いしてきただけなのではないか。

しかしどうやら、強制や評価(比較)は、人間の本来の性質にとても相性が悪いもののように思う。恐怖や嫌悪、苦手意識を植えつけるのにこれほど優れた方法はない。なのに私達は他にどうしたらよいのか分からず、途方に暮れて、やむなく惰性で続けているだけではないか。

私達は、もっと日常をよく観察し、実験し、その効果を検証する、という科学の方法を、一人ひとりが試してみるほうがよいように思う。「驚き屋」は、非常に試す価値のある方法のように考えている。「できない」が「できる」に変わったその瞬間、その差分に気づき、驚く驚き屋。

これは私の仮説でしかない。まだ理論的に実証されているものではない。しかし、私の文章を読み、生活体験から「その通りかも」と思った教師や親御さんから、「驚く」を試してみたら、驚くほど子どもの反応がよくなった、というお話しを聞かせてもらう機会が増えた。

こうした声が高まれば、やがて理論的に確かめてみよう、という教育学者が現れるかもしれない、と期待している。私はこの仮説を言語化したに過ぎないが、どなたか、理論的に実証する実験を始めてみて頂きたい。

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