あまりにも「お約束」な政治とマスコミの世界

日曜日の夜、都知事選のことを報道している番組がMr.サンデーくらいしかなかったので、たまたま石丸氏が登場しているところを見ていた。どのコメンテーターの発言にもケンモホロロな塩対応で、「こりゃ反発食らうなあ」と思いながら、氏の発言で気がつく点もあった。

政治の世界って、「お約束」のやりとりが多い。テレビ番組では政治家に「今回の選挙の感想を」と質問することが定番だけれど、個人の感想なんか聞いてどうすんねん、と私も思っていた。スポーツ選手とか、自分の力でどうにかする世界ならまだわからないではない。でも政治は違う。

日本は曲がりなりにも民主主義の国。政治家は、市民から選ばれて政治を「代行」する立場。政治家は決して王様や君主ではない。民主主義の国では、政治家は、市民の代わりに政治を執り行う代行者であって、個人の好みで動いてはいけない立場。

しかしテレビ局では、「風が起こせたと思うか?」とか、個人としての感想を聞くことが定番になっている。これに石丸氏はひどく反発しているなあ、という気がする。市民の代行者に過ぎない政治家が、個人の感想を政治に関して述べてどないすんねん、というのが、石丸氏の本音のような気がする。

政治の世界は、使い古されたフレーズが多い。「力及ばず」とか、「改革を前に進めよう」とか。使い古され過ぎて何の感興もわかない。政治家は人の心を動かすのも仕事の一つなのに、安心安全だけど無害無益な言葉を連ねる人ばかりだなあ、という気が強くしていた。

質問するテレビ局も、あまりに使い古された定番の質問が多すぎる。なんだか予定調和的なやりとりになって、一種の「儀式」と化している。政治の世界が、変化に乏しい、「改革を!」という割には、言葉の改革ができていない世界だなあ、と思う。

政治家とマスコミに責任がある、という石丸氏の指摘は、「それは正直あるなあ」と思う。選挙の進め方も、報道の仕方も、立候補者の市民に呼び掛ける言葉も、みんな、今までずっと聞いてきたような言葉ばかり。聞き飽きた。そうした過去の文脈を、石丸氏は拒絶しているらしい。

さてまあ、石丸氏のケンモホロロな塩対応は、敵もたくさん作る。政治家は、味方をたくさん作り、それが結果的に多数の市民を動かし、政治を動かす力となることを考えると、あまりに拒絶的な対応は、今後どうなのかな、という気はする。

でもまあ、政治家もマスコミも、定番の言葉を紡ぐ「ラクさ」に逃げていることは否めない。思考停止といってよい状態。そこはもう少し考えなきゃいけないんじゃないの?と思う。自分の言葉で話せている人が非常に少ない。

自分の言葉が出てこないのは、物事をよく観察できていないからだと思う。定番のものの見方に頼り過ぎて、そのためにこれまで通りの情報しか目と耳に入ってこない。だから定番の言葉しか紡げないのだと思う。マスコミも政治家も、頭の中で先に「絵」を描き、そればかり見てる。現実じゃなくて。

こういうストーリーで話を進めよう、なんていう予定調和的なことを考えるから、それに強く反発する石丸氏にしてやられたのだと思う。オチを最初から考えたストーリーで話を進めるから、柔軟性を失うのだと思う。政治家も同様。

石丸氏の拒絶的な姿勢がいいとは思わない。しかし、こと政治に関しては、使い古された言葉・思考が支配し、そこから抜け出せなくなっているのは確か。それに辟易した人たちが、石丸氏に、風穴からの新風を感じたのではないか。

政治家文脈、マスコミ文脈を一度解体し、現実から言葉を紡ぎ直すことをやった方がいいと思う。既存政党に国民が飽き飽きしているのも、あまりに思考と言葉が定番すぎるからだと思う。

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