近藤丸

勉強・研究のノートとして使用。 問い合わせ・連絡先  kondoumaru7@g…

近藤丸

勉強・研究のノートとして使用。 問い合わせ・連絡先  kondoumaru7@gmail.com   最近寄稿したエッセイ→ http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/anjali_web24030105_kondomaru/

マガジン

  • 仏教マンガの可能性と問題点

    筆者は、仏教の言葉と出会って感じたこと等をマンガにすることをしてきたが、その過程で、仏教のことをマンガにする事には可能性もあると同時に、いくつかの問題点もあることも感じるようになった。そのことを忘備録として記録しておきたい。

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Webマガジンにエッセイを寄稿しました

親鸞仏教センター(真宗大谷派の学事施設)のWebマガジン『アンジャリ』3月1日更新号にエッセイ(論考)を寄稿させていただきました。 (終) 親鸞仏教センターのWebマガジン『アンジャリ(añjali)』の特集「仏教と現代文化」に拙稿「仏教をテーマにマンガを描く中で知らされた可能性と危うさ」を寄稿いたしました。 http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/anjali_web24030105_kondomaru/

    • 説明しすぎることの問題性 … 日記20240918 

      昨日考えたこと 昨日、SNSで見たある人の言葉に考えさせられた。 なるほど、確かに自分も、「好きなことをやりなさい」というメッセージを子どもたちに発していたし、何ならそれを、他の大人はそう思わないかもしれないけど、「好きなことをやった方がいいよ」という形でどこか、わかった大人のつもりで言っていたのではないか?しかし、「好きなことをして生きろ、そこに本当の自分があり、それが善いことなのだ」というのは、一つの「物語」でしかない。それはおそらく、近代以降に生まれてきた価値観であ

      • かけがえのない、一回限りの人生と思えないという問題

        本多弘之先生の『新講 教行信証』第一巻の言葉をメモしておく

        • 安田理深師の言葉 20240917 生まれたことの意義

          安田理深氏の言葉。強烈な言葉である。だが真実である。真実の言葉であるので非常に厳しい、でも限りなく優しい。 我々は何のために生まれたのだという。しかし、予定的に人生の意味があるのではない。なぜなら「人間に生まれようとして生まれてきた者はいない。思いを超えて生まれてきたのである」からだという。 私たちは、資本主義的意識だけで生きている。だから、生まれたことも資本主義的の原理で考えようとする。そこに人生の形而上学的意義を全く見失っていると安田は喝破する。 我々は、徹底的に資本主

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        Webマガジンにエッセイを寄稿しました

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        • 仏教マンガの可能性と問題点
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          9本

        記事

          インターネット安息日が必要だ。 自分をはじめ、多くの人が”インターネットの見過ぎ” で ”へとへと” になっていると感じる。せめて週一日でも、インターネット安息日を設けるのはとてもいい。 (参照『手づくりのアジール』p.156)

          インターネット安息日が必要だ。 自分をはじめ、多くの人が”インターネットの見過ぎ” で ”へとへと” になっていると感じる。せめて週一日でも、インターネット安息日を設けるのはとてもいい。 (参照『手づくりのアジール』p.156)

          研究メモ 長谷正當『本願とは何か』①

          これは、雑多な読書・抜き書き メモである とても心に残ったのが次の言葉「 われわれの生きている世界は我執に囚われた世界であり、「白骨累々たる世界」、死骸に満ちた世界である。それは「何ら生気のない世界、満足のない世界」(同前)、いつでも不満と怒りに満ちた世界である。そういう世界の中にあって、「有り難い」という思いが生じるのは、そこに、われわれの生きている世界を支配している原理とは異なった原理がはたらくからである。その原理が本願である。…有り難いという言葉ほど尊い言葉はない。…

          研究メモ 長谷正當『本願とは何か』①

          毎田周一の懺悔に関する言葉 (3)

          以下は研究メモです 忘備録のため置いています 化土往生に関しての毎田周一の理解 →毎田は、一九願・二〇願のものは、いまだ不信にとどまっている。この不信が「懺悔」せられないと浄土往生ではないという。不信のものは、いったん化土へ往生して、そこで疑惑の罪を「懺悔」しなければ、真実報土へ往生は出来ないと説示する。

          毎田周一の懺悔に関する言葉 (3)

          毎田周一の懺悔に関する言葉 (2)

          以下は研究メモのため 雑多なメモ書きである 毎田は、徹底的な懺悔を通して、一念の横超に至るという。やはり親鸞との違いは、懺悔ができると考えているということではないだろうか。懺悔の転回を現在只今の真の一念に味わうべきであると述べる。しかしこれは、親鸞のの言う懺悔とは違う。 →疑惑の罪の懺悔される必要を述べており、その契機を化身土とみている。ここにも毎田の懺悔観の特徴がある。さらに、また、二益を一益として味わうべきという、これなども、伝統的な正当な教学理解からすればかなり問題

          毎田周一の懺悔に関する言葉 (2)

          毎田周一の懺悔に関する言葉

          毎田における懺悔の一つは、到底この世では真理に到ることがない。死んでしかさとりに到ることができないという自覚である。この気づき、自己の罪悪性・生きている間は真実になどなれない我であったと気づくこと。この気づきが懺悔と呼ばれている。毎田はこれを「絶対否定」と言っているが、これは絶対否定なのだろうか? 毎田のいう「知的転換」とはどういう意味なのか? 「この絶対否定によってのみ、懺悔を通してのみ、金剛の、他力の信は与えられるのである。」毎田は懺悔・絶対否定を通して初めて他力の信

          毎田周一の懺悔に関する言葉

          研究メモ 海のように働く信心

          マイケル・コンウェイ先生の言葉 マイケル・コンウェイ先生は、「私の信心ということを考えるときに、私の身で終わるというふうに思うんですけど、親鸞聖人は信心海とか海という言葉を使います。自分の身を完全に包むような大きな用き、大きな場ですよね」とおっしゃる。私に用く信心が、私の身で終わらない。個人所有で終わらない。その心が海のように展開しているので、私を包んで用いていているというのである。 マイケル・コンウェイ氏の言葉を借りれば、信の用きが「私の身で終わ」らないのである。

          研究メモ 海のように働く信心

          研究ごっこで十分である

          研究に行き詰っていて、やめようかなという気持ちになる やり方が分からない 相談する相手がいないことが一番の問題である 先ほどSNSをみていて、勇気をもらう言葉を見た そうだな、完璧な研究なんてできるわけないし、そのような力もない しかし研究ごっこならできる。 それで十分だ 研究ごっこをやっているうちに、いつかそれなりに形に成るかもしれない 今は分からないなりに、もがいてやるしかない

          研究ごっこで十分である

          毎田周一 懺悔について⑴

          今思想家の毎田周一が懺悔ということをどう考えたか調べているが、毎田は懺悔に関して多様に語っており、それらを統一的に見ることは難しい。可能なのは広く資料にあたり、前田の懺悔の諸相を描写することであろう。 毎田の懺悔思想において、重要な資料となるのは論文「親鸞聖人論ー教行信証信巻末懺悔の研究ー」『全集』四pp.541-558である。 今回は、この論文に収められているいる、文章を抜き書きしていきたい。 まずもって、毎田がいう「教行信証信巻末懺悔」とは何か?以下の文章のことである

          毎田周一 懺悔について⑴

          毎田周一の言葉⑴

          研究メモ 毎田周一氏の全集を読みながら気になった言葉をメモしていく ►なるほど、私たち自身が無我になる必要もない、現実を光寿二無量にするひつようもないというのは、慧眼だと感じる。私たちが無我になったり、光寿無量になれば、それを握りしめてしまう。しかしそれは握れないし、握る必要もない。ただ、本来無我であり、光寿二無量であると、教えられていく。その事実に気づく。それを所有する必要はないのである。 ►懺悔とは、内部へ自己分析することではない。自己の全体が打ち捨てられることだとい

          毎田周一の言葉⑴

          研究メモ 「利他真実・自利真実」に学ぶ①

          前回『教行信証』「行巻」「他力釈」における「利他」の意義を窺った。親鸞の「利他」を窺う上で重要な意義を持つ言葉に「利他真実」がある。「利他真実」の語について若干考察したい[i]。 かかる「利他真実」は「自利真実」と対に用いられることが多い。たとえば、「信巻」に「散善義」を引用して、「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり[ii]」と示される。さて、「利他真実」は善導の『観経疏』「散善義」に用いられる言葉であり、親鸞は、その多くを『観経疏』から引用している

          研究メモ 「利他真実・自利真実」に学ぶ①

          研究メモ 「他力釈」①

          「他力釈」に何が書かれているのか? 『教行信証』「証巻」の結釈に次のような文章がある。 ここで、親鸞が「他利利他の深義」と示すものは、曇鸞著『論註』の「利行満足章」にある文章のことを指す。かかる文言は、「行巻」の「他力釈」に引用されており、この「他利利他の深義」が親鸞思想における「利他」概念の理解に大きな影響を与えていると考えられる。そこで、「他力釈」において利他がどう語られているのかを見ていきたい。  親鸞は「他力釈」の冒頭に、「他力といふは如来の本願力なり 」と釈し

          研究メモ 「他力釈」①

          「一乗海釈」に学ぶ⑴

          親鸞『教行信証』「行巻」にある、「一乗海釈」は、その直前にある、「他力釈」と大きく関係していることに気づくかされた。 まず本文を示す。 特に注目したいのは、親鸞の自釈である以下の部分である。 この部分において、海の用きということが示されている。 まず、私たちのありようが、 久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて と示されている。この部分に注目したい。 私たちはある方向性に向かって、善なる行為を積み重ねていこうとする。しかしそう

          「一乗海釈」に学ぶ⑴