研究メモ 海のように働く信心 6 近藤丸 2024年8月27日 23:39 マイケル・コンウェイ先生の言葉これもこの間、相応学舎の報恩講の法話の中で、本多弘之先生が信心に関連して救済の大地性、大悲の大地性と言われていました。先生は欲生心(衆生を浄土に生まれさせたいと願う如来の心)について語っていたところでそれを仰っていました。私達の信心の最も深いところの欲生心が、大地につながっているということです。マイケル・コンウェイ(二〇一五年)『信の源泉を尋ねて―真の価値観を求める歩み― 』[キンドル版],響流書房, amazon.com (マイケル・コンウェイ(二〇一五年)第七章、一段落)私の信心ということを考えるときに、私の身で終わるというふうに思うんですけど、親鸞聖人は信心海とか海という言葉を使います。自分の身を完全に包むような大きな用き、大きな場ですよね。信心の大地性ということも、自分が考えるような頑張ることとかとは違って、何か、根源的に信の源泉、自分の心の深いところにあるというふうに思って、でも何か自分の心の中というとまた間違えてしまうのです。自分の心より深い、大地にある、自分の足の裏を支えているものにまで信心の用き、願力の用きがあると感じてきたわけなんです。自分の心は脆いもので、妻が怒るとこちらも怒りますし、学生が変なことをするとこちらも怒りますし、妻に怒っているから学生に怒ることもありますし。申し訳ないんですよね。その心を包んで根底から支えて歩み続ける力を与えてくださるもの、それが願力ということですね。マイケル・コンウェイ(二〇一五年)『信の源泉を尋ねて―真の価値観を求める歩み― 』[キンドル版],響流書房, amazon.com (マイケル・コンウェイ(二〇一五年)第七章、二段落)マイケル・コンウェイ先生は、「私の信心ということを考えるときに、私の身で終わるというふうに思うんですけど、親鸞聖人は信心海とか海という言葉を使います。自分の身を完全に包むような大きな用き、大きな場ですよね」とおっしゃる。私に用く信心が、私の身で終わらない。個人所有で終わらない。その心が海のように展開しているので、私を包んで用いていているというのである。マイケル・コンウェイ氏の言葉を借りれば、信の用きが「私の身で終わ」らないのである。 ダウンロード copy 6 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート