毎田周一の言葉⑴

研究メモ 毎田周一氏の全集を読みながら気になった言葉をメモしていく

念仏は事実の認識である。それ以上でも以下でもない。真理の表現といはるる所以である。

念仏は単に知ればよいのである。気づけばよいのである。何をしなければならなぬ、行ぜねばならぬということはないのである。現前の世界の真風光に気付けばよいのである。現前の世界は一分一厘だに変更されるのではないのである。

私達が既に無我であることに気づくのである。現前の世界は既に光寿二無量なることを気付くのである。無我になる必要もなければ、光寿二無量にする必要もない。

ハッと気づけ、といふことが、念仏の真理の表現たる所以である。念仏の声が聞こえるとは、そのことに気づけ、認識せよ、といふことである。表現は認識を要求している。

『全集』補遺Ⅰ・三四八-三四九頁

►なるほど、私たち自身が無我になる必要もない、現実を光寿二無量にするひつようもないというのは、慧眼だと感じる。私たちが無我になったり、光寿無量になれば、それを握りしめてしまう。しかしそれは握れないし、握る必要もない。ただ、本来無我であり、光寿二無量であると、教えられていく。その事実に気づく。それを所有する必要はないのである。


光寿二無量の前に只跪くのみではないか。自己の全体が打ち捨てられて、問題とされない。それが懺悔である。懺悔とは自分はかういふ悪い人間ですと、内部へ分析することではない。自己全体が捨てられるのである。

念仏が平凡であったのは、眼前歴々底の指摘であるからである。ありのまま、そのままの平常底の直観であるからである。端的な事実といふものは余りに平凡なのである。

念仏によって私達は平常底となる。そのままとなる。即ち平凡となる。念仏者が愚者の姿であるのは余りに当然なことである。愚夫愚婦によって念仏が唱えられるのではなく、念仏によって私達は愚夫愚婦となるのである。

小賢しき智慧を働かして、自己と世界とを分析するのではない。そのままに端的に、この世界の無限の結構を承認するのである。直観するのである。只々不可思議であるを知るのである。不可思議とは無限なるが故である。無限の前に立つとき、私達は悉く愚者である。

『全集』補遺Ⅰ・三五〇-三五一頁

►懺悔とは、内部へ自己分析することではない。自己の全体が打ち捨てられることだという。分るようでわからない。どういうことか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?