親鸞『教行信証』「行巻」にある、「一乗海釈」は、その直前にある、「他力釈」と大きく関係していることに気づくかされた。
まず本文を示す。
特に注目したいのは、親鸞の自釈である以下の部分である。
この部分において、海の用きということが示されている。
まず、私たちのありようが、
久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて
と示されている。この部分に注目したい。
私たちはある方向性に向かって、善なる行為を積み重ねていこうとする。しかしそうしたありかたが親鸞によって「雑修雑善」とされる。雑修雑善とは、雑修とは、様々な善を行うことであり、雑善とは「三毒をまじえ煩悩に汚された善と、その修行のこと」(『浄土宗辞典』)
である。それらは、人それぞれが結果もわからずに行うことなので、細き川であるとされるのである。それが「川水」ということであろう。しかも、親鸞は、我々が「久遠よりこのかた」ずっとそのような在り方を続けているというのである。しかし同時に、人間の在り方が、海水としても示される。「逆謗闡提恒沙無明の海水」と説示されている。人間の無明の在り方が黒々とした海のように、人間にはいかんともしがたい在り方として横たわっていることを示されているように思う。海を手づかみすることはできない。海は底知れない恐ろしさを持つ。親鸞は、我々の無明(無智)の在り方もそのような海の性質を持つというのである。
ところが、人間のその「雑修雑善の川水」が、「本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水」へ至る通路となっているという見方ができるのではないだろうか。
久遠よりの、「雑修雑善」は、おそらく、無駄なものではない。そういう背景をもって我々の命があるということである。そのような在り方を転じて、「宝の海」(本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水)とするというのである。それが、海の在り方だと親鸞によって示されているのである。これは唯信鈔文意にある、
とあることと、つながっているであろう。
親鸞は、諸仏のお育てがあり、なんども自力の菩提心を起こし。流転してきた。そういう背景のうえに念仏のお育てをいただいてきたのだと受け止めている。だからこそ、他力の信心をえたひとは、けっして、自力の善根をそしったり、阿弥陀如来以外の諸仏・諸菩薩・聖者をおとしめたりしてはならないのだというのである。
親鸞には、「自力の行」「雑修・雑善」を、他力の信仰にいたる通路としてみる思想がある。同時に他力の信は海にたとえられ、各々が個人的に努力していくようなありかたは細い川として抑えられているのである。
『愚禿鈔』においてもそのことは語られていると、神戸和麿先生の論文で教えられたのである。
(終)
以下は、メモ 矢田了章『『教行信証』入門』抜き書き