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「一乗海釈」に学ぶ⑴

親鸞『教行信証』「行巻」にある、「一乗海釈」は、その直前にある、「他力釈」と大きく関係していることに気づくかされた。
まず本文を示す。

「一乗海」といふは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなはちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず、異の法身ましまさず。
如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「善男子、実諦は名づけて大乗といふ。大乗にあらざるは実諦と名づけず。善男子、実諦はこれ仏の所説なり。魔の所説にあらず。もしこれ魔説は仏説にあらざれば、実諦と名づけず。善男子、実諦は一道清浄にして二つあることなし」と。{以上}
またのたまはく(同・徳王品)、「いかんが菩薩、一実に信順する。菩薩は一切衆生をしてみな一道に帰せしむと了知するなり。一道はいはく大乗なり。諸仏・菩薩、衆生のためのゆゑに、これを分ちて三つとす。このゆゑに菩薩、不逆に信順す」と。{以上}
またのたまはく(涅槃経・師子吼品)、「善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」と。{以上}
またのたまはく(同・師子吼品)、「いかんが一とする。一切衆生ことごとく一乗なるがゆゑに。いかんが非一なる。三乗を説くがゆゑに。いかんが非一・非非一なる。無数の法なるがゆゑなり」と。{以上}
『華厳経』(明難品・晋訳)にのたまはく、「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。一切の無礙人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。{以上}
しかれば、これらの覚悟は、みなもつて安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。
「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。{以上}
願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。(『註釈版聖典』一九五-一九七頁)

『教行信証』(『註釈版聖典』一九五-一九七頁)

特に注目したいのは、親鸞の自釈である以下の部分である。

「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。{以上}
願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

『教行信証』「行巻」

この部分において、海の用きということが示されている。
まず、私たちのありようが、

久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて

と示されている。この部分に注目したい。
私たちはある方向性に向かって、善なる行為を積み重ねていこうとする。しかしそうしたありかたが親鸞によって「雑修雑善」とされる。雑修雑善とは、雑修とは、様々な善を行うことであり、雑善とは「三毒をまじえ煩悩に汚された善と、その修行のこと」(『浄土宗辞典』)
である。それらは、人それぞれが結果もわからずに行うことなので、細き川であるとされるのである。それが「川水」ということであろう。しかも、親鸞は、我々が「久遠よりこのかた」ずっとそのような在り方を続けているというのである。しかし同時に、人間の在り方が、海水としても示される。「逆謗闡提恒沙無明の海水」と説示されている。人間の無明の在り方が黒々とした海のように、人間にはいかんともしがたい在り方として横たわっていることを示されているように思う。海を手づかみすることはできない。海は底知れない恐ろしさを持つ。親鸞は、我々の無明(無智)の在り方もそのような海の性質を持つというのである。

ところが、人間のその「雑修雑善の川水」が、「本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水」へ至る通路となっているという見方ができるのではないだろうか。

久遠よりの、「雑修雑善」は、おそらく、無駄なものではない。そういう背景をもって我々の命があるということである。そのような在り方を転じて、「宝の海」(本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水)とするというのである。それが、海の在り方だと親鸞によって示されているのである。これは唯信鈔文意にある、

「十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に、三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。」(『註釈版聖典』七一三頁)

『唯信鈔文意』(『註釈版聖典』七一三頁)

とあることと、つながっているであろう。
親鸞は、諸仏のお育てがあり、なんども自力の菩提心を起こし。流転してきた。そういう背景のうえに念仏のお育てをいただいてきたのだと受け止めている。だからこそ、他力の信心をえたひとは、けっして、自力の善根をそしったり、阿弥陀如来以外の諸仏・諸菩薩・聖者をおとしめたりしてはならないのだというのである。

親鸞には、「自力の行」「雑修・雑善」を、他力の信仰にいたる通路としてみる思想がある。同時に他力の信は海にたとえられ、各々が個人的に努力していくようなありかたは細い川として抑えられているのである。

『愚禿鈔』においてもそのことは語られていると、神戸和麿先生の論文で教えられたのである。

(終)






以下は、メモ 矢田了章『『教行信証』入門』抜き書き

【講義】
一乗とは
  まず「一乗」とは大乗のことであり、すべての者を仏にするという意味で仏乗というのであって、この一乗を得ることで究極の悟りが得られると説いています。そして、この悟りを「涅槃界」「究竟法身」と示します。「究竟法身」とは、

いろもなしかたしもましまさず。しかればこころもおよばず、ことばもたえたり。(『唯信鈔文意』)
というように、色もなく形もない、私達衆生では把捉できない大乗空としての真如のことで、法性法身ともいわれます。
 また、「異の如来ましまさず、異の法身ましまさず」とは、一乗によって究極の悟りに至ることに関して、いろいろな別の如来がおられる訳ではなく、またさまざまな法身をもたないということで、大乗仏教でさまざまに説かれている如来も法身もみなその本質は同じであることを示します。
 このような視点に立って、声聞や縁覚の教えである小乗仏教や菩薩のための教えは、実は一乗に引き入れるための教えであると述べられます。
 ここまでは、仏教における一乗の意味を述べていますが、この一乗について、「ただこれ誓願一仏乗なり」とあります。「誓願一仏乗」とは親鸞聖人独特の言葉です。ここではじめて一乗とは阿弥陀仏から回向される念仏のことであると明らかにされます。ですから、親鸞聖人は一乗の解釈で、阿弥陀仏から回向された念仏こそが、大乗仏教の中での至極であることを明確に位置付けようとされたといえます。
海とは
「海」とは、広大・無辺のことで、阿弥陀仏の智慧と慈悲が無量無辺であることを、親鸞聖人の体験に基づいて表した言葉です。衆生をさまざまな個性を持っている川の水、またそれぞれ独特な汚れ方濁り方をしている海水に喩え、このようなありとあらゆる衆生を摂め取り、同じ味の海に同化するはたらきを「海」と表しています。さまざまな煩悩に迷っている衆生が本願大悲のはたらきによって、阿弥陀仏に摂め取られているという事態を、「海」と表現しています。煩悩を具足したままの凡夫が今まさに救いにあずかっているという宗教体験においての言葉であるといえましょう。
 「凡聖所修の雑修雑善」を川水に、「逆謗闡提恒沙無明」を海水に喩えています。聖者や凡夫の修める行はそれが雑修雑善であっても一心に励んでいることから、味がまだ強くない川の水に喩え、五逆罪・謗法罪・一闡提の者は明らかに阿弥陀仏に背を向けて生きているために、煩悩の味が強烈である海水に喩えるのでしょう。
 親鸞聖人は阿弥陀仏のはたらく世界を、本願海、智慧海、大信心海、功徳大宝海等とたびたび表現しています。しかし、「行巻」の「正信念仏偈」では、
如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。
〔真如より如来が顕われ出られたのは、海のようにすべてを摂め取る阿弥陀仏の本願を説くためです。五濁の世で際限なく拡がっている迷いの者達は、この如来の言葉を信じるべきです〕
とあるように、阿弥陀仏について「本願海」と顕わす時、迷いの衆生を「群生海」と示されます。阿弥陀仏の無量性が感得される時、際限なく深くしかも拡がって迷い続けている衆生を阿弥陀仏は無量無辺に拡がって救おうとはたらいておられることが知られます。こうした阿弥陀仏の救いの実感を、親鸞聖人は「海」と表現されているのです。

願海とは
「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや」は反語形式を用いた表現です。阿弥陀仏の世界は、二乗という仏道実践上高度な段階まで進んだ者の研ぎ澄まされた自力心、それは自己の修めた行業を誇る心を含んでおりますが、こうした自力心であっても溶かしてします。まして、行としての自力に深くこだわっていない、こだわるという意識も強烈でない凡夫であれば、なおさらのこと願海に摂め取り、一体化してしまう、と。
かつて、龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』で、菩薩には不退転地である初地に入ることのできる菩薩とできない菩薩の二種類があることを明かして、
もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。地獄のなかに堕するも、畢竟じて仏に至ることを得。もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。(「易行品」)
〔もし声聞や縁覚の地位に堕ちるなら、これを菩薩の死と名付けます。そうなるとそれまで積み上げてきた利益をすべて失ってしまいます。たとえ地獄に堕ちたとしてもこのような恐れは生じませんが、もし二乗の地位に堕ちますと大きな恐れを生じます。なぜなら、地獄に堕ちたとしてもいつの日か仏となることはできますが、もし二乗地に堕ちますと、ついには仏となる道を遮ってしまうからです〕
と、大乗仏教の自利利他行を、たとえ自利ばかりとはいえ初地間近の声聞、縁覚は、自らが修めた自利の行への執着心によって仏道を遮ってしまい、地獄に堕ちた者よりも救われがたいと説かれています。
 親鸞聖人は、このような二乗の持つ仏道実践上での執着心、自力心を痕跡無く溶かしてしまえるのが阿弥陀仏の本願海であると述べています。また迷いの世界に住む人間や天人とは、龍樹菩薩のいわれる地獄に堕ちた者に該当するでしょう。二乗のような仏道実践すら修めようとはしていませんので、すくなくとも初地に入るために障碍となる仏道実践上の執着心、自力心は声聞や縁覚ほど強烈ではないでしょうから、阿弥陀仏にすべてをおまかせする教えに頷き易いと受け止められ、「屍骸を宿さず」といわれるのでしょう。いずれにせよ、阿弥陀仏の教えはすべての者を徹底して救おうとしていることが、ここから感じ取れます。
(一七〇-一七四頁)

(一七〇-一七四頁)


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