毎田周一の懺悔に関する言葉 (2)

以下は研究メモのため 雑多なメモ書きである


この名号を以て表現せられる、真理の教へは「真教」であり、又それが此の世に唯一の救済の教へ「真宗」である。この二語、真教・真宗ともに、真を冠し、真理の立場の貫かれていることを注意すべきである。真理の立場が横超である。私が平常底といはざるを得ない所以である。
次に横超は同じ浄土門の中にあって、横出と対する。
「亦復横出有り。即ち三輩九品の教、化土懈慢迂回の善なり」――他力を頼みつつも、尚自力の余臭を除き得ざるもの、これを横出といふ。観経の三輩九品、定善散善を修する立場、化土・懈慢界に往生する回りくどい善の立場、道徳的なるものを残しているのである。化土往生とは真実報土の往生ではない。懈慢とは真実信心なきをいふ。懈は懈怠・怠慢・思いが尽くされていない、自己の真相が剔抉されていないから、従って慢・高慢である。未だ自己を頼む処があるのである。この真実信心なきものの往生するのは、報中化土、そこに疑惑の罪がもう一度懺悔されてのみ、弥陀の国へ往生することができるという「迂回」なる道である。
 これに対して再び「横超」を明らかにされる。
 「大願清浄の報土には、品位階次を云はず、一念須臾の頃、速に疾く無上正真道を超証す、故に横超と曰ふなり」――大願清浄の報土とは、如来の生命の世界である。ここに転入するといふこと、往生するといふことは、唯真実信心一つなのである。その真実信心とは、善導の機法二種深心である。即ち己がなくなることである。此の無我の世界を如来の生命の世界といふ。
この無我は死を以て象徴せられる。肉体の死を以て唯一の死と思っている人は、迂遠な(のろまな、愚鈍な)人である。私達が現在の瞬間に於いて、自己を極重悪人と発見することこれ死ではないか。罪に死するのである。最早や我れ生くるに非ず、基督我れに在りて生くるなりとは、パウロの告白である。罪に死せるパウロである。これを善導は無有出離之縁といった。
 私達が極重悪人であることは、是に品位・階次を問はざることである。ここに一如平等である。そしてそこに真理の世界は顕現する。賢人も愚人も、善人も悪人も、男も女も、老人も子供も、真理の表現である。唯一真実の顕現である。そこに如何なる差別があろうか。聖徳太子は痛烈に「共に是れ凡夫のみ」と仰言った。私たちの価値判断の許されない、差別観を許さぬ世界である。
 だから「念須臾の頃、速に疾く無上正真道を超証す」といはれる。即今・只今、一瞬の転回である。無上正真道とは真理の顕現である。超証すは、真理の世界への転入である。これを平常底ともいふ。これを横超といふ。
私はここで、死して未来に浄土へ往生して成仏するといふことを、只今の信楽の一念に領受する、入正定聚不退転位に於いて味わったのである。従って横超を単なる当益(未来の益)のみならず、現益(現在の益)としても味ったのである。正に横超は、現当二益であり、而もこれを全き一如に於いて、一益として味わうべきであるといふのである。
 何故ならば、横超とは信の一念のことであるからである。いふ迄もなく死して後初めて成仏するといふことには、現在の肉体を具へしままにては遂に成仏を得ないといふ、徹底的な懺悔がある。この懺悔の転回を、現在只今の真の一念に横超として味ふべきだといふのである。(一六八頁)

毎田は、徹底的な懺悔を通して、一念の横超に至るという。やはり親鸞との違いは、懺悔ができると考えているということではないだろうか。懺悔の転回を現在只今の真の一念に味わうべきであると述べる。しかしこれは、親鸞のの言う懺悔とは違う。

→疑惑の罪の懺悔される必要を述べており、その契機を化身土とみている。ここにも毎田の懺悔観の特徴がある。さらに、また、二益を一益として味わうべきという、これなども、伝統的な正当な教学理解からすればかなり問題のある部分ではないだろうか。

他力の信心を得るものは、死んで成仏することが確定的であるといふのである。ここに明らかに親鸞聖人の死後往生の思想・信念を見るのである。
 聖人は遂にこの世の命ある限りは、地上に於いて成仏するとはいひ得なかった方である。併し成仏し得ないのではない。この肉体を離れるとき成仏するといはれる。
 ここに聖人の懺悔がある。この肉体を有する限り、遂に仏となり得ない自己の徹見がある。正に「念々称名常懺悔」である。そして死するといふことは、この肉体がなくなることである。そこで始めて、この世の真理と一となり、絶対無と一となるといはれる。
苦しい肉体の世界を遂に超える時は来るぞ、といはれる。これ「臨終一念の夕」である。ここに最も願はしいものとして「死」が希まれている。生の苦を厭ふものは、死の楽を思ふ。厭離穢土、厭離我身の究極は、遂に死の彼方に光明をのぞむこととなる。
極重悪人と南無するとき、既にそこに無我の世界は展開し来るのである。これが死して大般涅槃を超証するといふこととやがて一なることである。何故ならば死してのみ成仏するとは、現生の極悪深重の懺悔に外ならぬからである。
 そこで「横超」の金剛心とは何であるか。横超は竪超に対する。自らの智慧の力にて此の世を超えんとするものを竪超といふ。これに対して我が心にも非ず(我が心に背いて)、いはば心ならずも此の世を超えしめられるのを、他力による横超といふ。即ち私達の極重悪人の自覚は、そのまま私達自身の壊滅である。所が図らずもこのことが、無我の世界への転入、超世への転換であったのである。(一七四頁)

『無条件の救済』一七四頁

往相回向の真心、浄土に往生すべく決定する信心が、徹到するといはれる。徹到はそれによって、完全に転回せしめられることである。現生入正定聚不退転といふ信の一念は、かかる転回なのである。全く新しい世界がそこに転回してくるのである。これ無生の世界、永遠の今なる世界である。最早や人間的立場からの価値判断が喪失して、唯あるがままの真実の世界が眼前に展開し来るのである。これ光寿二無量であり、平常底である。ここへ喜悟信の称名と共に、横超せしめられるのである。韋提と等しくといふところに、信の一念の横超を味わふべきである。(一七五頁)

『無条件の救済』一七五頁

「仮と言ふは、即ち是れ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。偽と言ふは、即ち六十二見、九十五種の邪道是れなり。」
仏法を学びつつも、その核心に徹底し得ないもの、直入し得ないもの、これを「仮」の仏弟子といふ。それは何によるのであるか。ひとへに善導のいはゆる「機の深信」を欠くからである。これの極点に於いて起ってくる法の深信への転回を、聖人は横超と名付けられたのである。だから横超の機のみ、真の仏弟子であり、正定聚の機であり、唯信の一念によって救はれゆくものである。横超とは無条件の救済である。これ信一つといふことである。無条件とは自力の撥無といふことである。この自力が少しでもとりついている限り、隠れている限り、それは「仮」の仏弟子である。
 これを「聖道の諸機」「浄土の定散の機」と指摘せられた。一切の聖道門の行者を仮の仏弟子といはれる。何という辛辣さであらう。しかし浄土門の中にもこれがあるのである。これは定善・散善の道徳的な心を未だ完全に脱却し得ない者のことである。宗教の立場と道徳の立場の峻別こそ、真の宗教を捉へ得るか否かの試金石である。「悪をも怖るべからず、弥陀の本願を妨ぐるほどの悪なきが故に」といふことを、真に頂けるかどうかといふことである。
 「偽」の仏弟子とは、全く以て非なるものである。それは「六十二見」「九十五種」の外道である。如何にそれは種々雑多にして数多きものであらうか。それはひとり印度の古代に於いてのみではない。現代に於いて正に然りである。
 そしてこの私釈の後に二つの引文があって、最後のものが善導の語である。即ち曰く「九十五種皆世を汚す、唯仏の一道のみ独り清閑なり」と。此の引文を転機とし、契機として次に来る聖人の懺悔は爆発したのである。この善導の語は引火点となったのである。―――ここに最も深い聖人の信心の奥底が暴露せられた。正に「信楽」とはかくの如きことなのである。その真相はここにある。即ち仮の仏弟子、否、偽の仏弟子に過ぎない自己を発見せられたのである。
 この懺悔は私が以て「教行信証」の最奥底となすものである。その頂点を、行の巻の名号釈とするならば、これはその反対の極点にあるものである。私達が信巻全体に展開せられた、如来回向の信楽を頂くとすれば、正にこの懺悔を聖人と共にするところ以外にない。浄土真宗と雖も此の懺悔を措いてまさに何処にもないのである。


→偽の仏弟子に過ぎない自己の発見。それが懺悔。ここが如来回向の信楽を頂くところ。
であるから次に、懺悔の文が来る。そして毎田はこの一文を、「「教行信証」の最奥底」という。

「まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。」
「誠に知んぬ」--真の仏弟子、仮・偽の仏弟子を究明してきて、今果して此の親鸞は何れに属するのかを見られる。
 「悲しき哉」は自己の真相に当面せるときの叫びである。「愚禿鸞」この親鸞はといはれる。「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」--煩悩具足の凡夫である。欲と迷ひと、その外に何ものもない、この親鸞である。だから――「定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを」――大乗正定聚の数に入り、無上涅槃に到る身と約束されることに、何等の歓喜も感じないのである。これは信の一念のことであるから、何等の信心もない、此の親鸞だといはれるのである。
 愛欲・名利以外に何ものもなき、一途な煩悩具足の身であると、懺悔せられる。「恥ず可し」恥そのものである。「傷む可し」ただただ浅間しいことである。よきものの一片すらもない此の親鸞である。信すらもない、この無信の親鸞である。これ素ッ裸の人間親鸞である。
 まことや、信とはかういふものであるといふやうなものではない。私達の自覚は只無信の自己である。これ以外に信の具体相はないのである。生きた信はない。
 これ親鸞の機の深信の当相である。人間の奥底、而もその奥底の底も抜かれている。親鸞の真面目はここ以外にはない。「生命そのもの」といふ親鸞である。私はこれを「平常底」といふ。それは信といふものも、まどろっこしい端的である。
 そこで親鸞が、真・仮・偽の仏弟子の何処に自己を見出して居られるかも明らかとなる。――正に「偽」の仏弟子としての自己に過ぎない。
 「九十五種みな世を汚す、仏の一道のみ独り清閑なり」と善導がいはれたのに対して、正にこの世を刻々に、日々に、汚さざるなき、汚穢の一塊としての自己を見出された。これをしも「地獄一定」といはずして何ぞや。又これを「生命」といはずして何ぞや。親鸞の信とは、生命そのものである。これを平常底といはざるを得ない。
ここに私達は一切の衣裳を剝ぎ取られるのである。そして本書「教行信証」の底が抜ける。ここに私達は親鸞その人にまざまざと相遇ふのである。(一七七頁)

『無条件の救済』一七七頁

→この文章を親鸞の機の深信であるという。また、親鸞は自己を「偽」の仏弟子としてしか見ていないという。

では、どのように人間に機の深信がおこるのだろうか?
毎田は次のように述べている。
「法の深信が私達に機の深信あらしめるのである。私達にかの懺悔の出るのも、実は既に如来の智慧の光明に包摂されていたからである。」(一八一頁)
法の深信・如来の智慧の光明に包摂されているから、機の深信があらしめられるという。

では、毎田にとって、救いとは何なのか?

「「大乗正定聚の数に入る」は、如来の摂取の御手のうちに入るといふこと、「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」と歎異抄第一節にいふところである。必ず悟りをひらかして頂く、仏に成らしめられるに確定した人々の仲間入りをさせられることである。これは現生のことである。
それをさして成仏した、さとりを開いたとはいはぬ。依然として「生死罪濁の凡夫」なのである。しかし、さうなるべき「心行」を頂いているのである。これを救いといふ。だから親鸞は現生に救ひを味はれたのである。」(一八七頁)

一八七頁

毎田は、決してこの世で成仏したとは言わない、やはり「必ず悟りをひらかして頂く、仏に成らしめられるに確定した人々の仲間入りをさせられる」のが現生でのことであり、仏になるべき「心行」を頂いているといい、これを救いと措定している。しかし、その救いを味わうのは現生だという。

毎田は、滅度を彼土とし、死してから後のことであるとしながらも、「正定聚をかの彼岸の転回を現生に味ふ如く解する」といい、未来でありながら未来という時間に固執してはならないという。
「正定聚を現生のこととし、滅度を彼土往生のこととして、この時間的な経過を固執することによって、却って時間の真相をも逸することになるのである。何故ならば時間は具体的には、現在以外には実在しないからである。しかしかくいふも、私達自身が今還相の菩薩であるなぞと意識するやうなこととは、凡そ程遠いことであることも、無論のことである。」というのである。
つまり、未来に仏になるといっても、時間は具体的には今現在にしか感じることができないのだから、未来と言っても、未来に固執してはならないという。しかしこのようなことが、凡夫に可能だろうか。毎田の言うことはあまりにも理想的すぎないだろうか。
毎田はこのような味わいを「帖外和讃」をあげることによって、示していく。

「「帖外和讃」に聖人は歌はれた。「超世の悲願ききしよりわれらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」――こころは浄土に「あそぶなり」といはれた。この遊戯三昧こそは、既に一如の風光ではないか。」(一九一頁)

一九一頁

若しいふならば「性を見る」とは、私達にとって自己が惑染の凡夫であるといふ自覚の外にはない。「悪性さらにやめがたし こころは蛇蠍のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」(愚禿悲嘆述懐和讃)これは絶対否定である。自己のうちに仏性を見るなどいふ、安易な自己肯定はあり得ない。ここに浄土真宗の「機の深信」がある。これが真宗を他宗からわかつのである。
 「経に、我れ十住の菩薩少分仏性を見ると説く、と言へり」――涅槃経には、菩薩五十階の最後の十地の而も仏に次ぐ位である法雲地の菩薩でさへ、僅かばかりの仏性を見るに過ぎぬと釈尊が説かれている。だからして此の世に於いて自己に全分の仏性をみるといふことがどこにあらう。この機の深信に徹すべきである。「故に知んぬ」とはそのことである。機の深信に徹して、その果てに法の深信に転換せしめられ、如来の願力故に、そこに於いて見性成仏するの外に、一体何ものが可能であろう。――「安楽仏国に到れば即ち必ず仏性を顕す」と、「即ち必ず」といはれる。「本願力の回向に由るが故に」とは、法の深信である。
 聖道門の見性成仏に代るといふよりも、それを不可能として廃するものは、機法二種深信としての、信楽である。だから涅槃経には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」といはれている。
正に仏性とはわが内に何等の仏性なしと、自己の全体を投げ出さしめるもの、此の如来の智慧を外にしてはなく、又この全分の懺悔が、本願に乗托するとき、必ず浄土に往生して成仏するという「必定」の外にはない。(二〇四頁)

(二〇四頁)

『無条件の救済』p214まで読了

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