毎田周一の懺悔に関する言葉 (3)

以下は研究メモです 忘備録のため置いています


同様に方便の願の展開なる小経にも「一心」と説かれる。これは「二行雑わること無きが故に一と言」ふのである。称名念仏の一行のみ、執持名号、一心不乱といはれるからである。大経の至心信楽の一心が如来回向なるに対して、ここに執持名号の、二行雑わることなきを以て、小経の一心を定義せられた。これまことに小経にふさはしい定義である。
だからそこに自力が雑はっているのである。そこで「復一心に就いて深有り浅有り」といはれる。これ観経の深心との関係に於いて私的せられるのである。そして「深とは利他真実の心是れなり、浅とは定散自利の心是れなり」とあかされる。利他真実の心とは、如来の願心である。定散自利の心とは、自力を交へたる心である。この浅の地力を排除し純化して始めて、信楽の一心に帰する。
 三経の体系に於いて、観経の深心も、小経の一心も遂に大経の信楽に帰すべきことを指摘して、観経・小経の奥の真実を、その仮を破って見出すといはれる。
(二三四頁)

『無条件の救済』(二三四頁)

化土往生に関しての毎田周一の理解

化土へ往生するといふことを「此れ皆辺地・胎宮・懈慢界の業因」なりといはれる。――「辺地」は浄土に於いて、なほ中央へ行くことが残されている。だから還相回向の大行は思いもよらぬのである。「胎宮」は、真に未だ完く生れ出ない、まさしき浄土往生でないことを示す。「懈慢界」は、懈怠・慢心の世界。そこには仏智疑惑がある。不信がある。この不信の懺悔せられざる限り、浄土往生ではない。
…中略… これを見たてまつらずとは、本質的には、真理の前に跪かないといふことである。真理の前に跪かなければ、それと一つに融けることは出来ない。即ちわがものとすることは出来ない。それと一体となって、真理の体現者となって、始めて還相回向の大行に、遊戯することができるのであるが、これが出来ない。これ真の浄土往生に非ずして、化土往生なる所以である。化土とは未だ真理そのものに達していないといふことである。
一旦化土へ往生して、そこで疑惑の罪を懺悔して、全く真理の前に跪かなければ、真実報土には往生することは出来ない。(二四五-二四六頁)

『無条件の救済』(二四五-二四六頁)



→毎田は、一九願・二〇願のものは、いまだ不信にとどまっている。この不信が「懺悔」せられないと浄土往生ではないという。不信のものは、いったん化土へ往生して、そこで疑惑の罪を「懺悔」しなければ、真実報土へ往生は出来ないと説示する。

「仮門の教、欣慕の釈、是れ弥明かなり」――方便の教として観経を第十九願の顕説として説かれたこと、それが真実報土への方便・要門であること、又善導がこれを浄土を憧憬せしめ、そこに真実行としての念仏行へ、人々を導入せんとする意図ありと解釈せられたこと、これらのことが、尚一層明らかになって来る。即ち雑行、雑修を分析して、どこ迄も私達につきまとふ自力をみるとき、これは化土往生の業因に過ぎず、純一の称名の行のみ、「念仏衆生摂取不捨」の歓びに会ふことが出来るといふことが、益々精細に明るみに出てきたからである。畢竟ここに真実の浄信のみ、私達に救ひあらしめることを明らかにされた。
(二四六頁)

『無条件の救済』二四六頁


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?