これは、雑多な読書・抜き書き メモである
とても心に残ったのが次の言葉「 われわれの生きている世界は我執に囚われた世界であり、「白骨累々たる世界」、死骸に満ちた世界である。それは「何ら生気のない世界、満足のない世界」(同前)、いつでも不満と怒りに満ちた世界である。そういう世界の中にあって、「有り難い」という思いが生じるのは、そこに、われわれの生きている世界を支配している原理とは異なった原理がはたらくからである。その原理が本願である。…有り難いという言葉ほど尊い言葉はない。…注目すべきことは、「有り難いということは、一つの歴史的感覚というものに触れるのである。畢竟するに、この過去の死骸、生命の終わった概念である」と曽我が述べていることである。有り難いという思いが歴史的感覚であるというのは、それは宿業の大地、つまり、歴史的世界において感得されることによって、人間を宿業の世界の重力から解放するものだからである。そして、その有り難いという思いが人間に出現する源にあるのが「本願」である。」
有り難いという心は普通に生活をしていたら出てこない言葉である。何か日常の出来事を超えたことに出会ったときに初めて出てくるこゝろである。そしてその有り難いという心が出現する、源にあるのが本願であるという。人間は本願に出会いたいのである。
しかし日常はまさに、我執に囚われ白骨累々たる殺伐とした世界である。そのなかでは、まずありがたいなどという言葉は出てこない。何をしてもらっても当然で生きている。現代の資本主義社会は、それをますます加速させていると思う。全部お客様気分である。すべてが予定調和に出てくることが予定されていて、それが崩れるとイライラしたり怒りがわく。そこにありがとうの気持ちはない。しかし私たちが本当に触れたいのはありがとうという心ではないか?
仏教の勉強をしていたとしても、それを自分が利用するとき「有り難い」という思いなど全くない。。。しかし、今日長谷先生と、広瀬惺先生の本を読んでいて久しぶりに有り難いの気持ちが思い起こされた。それは、本願に触れたからなのかもしれない。