研究メモ 長谷正當『本願とは何か』①

これは、雑多な読書・抜き書き メモである

 歴史的世界を貫流する弥陀の本願
如来の本願は宿業の大地に降りてきて、人と人、人と物との関わりの中ではたらいている。われわれはそのはたらきを暗黙のうちに感じて生きているといえる。では、それはどのようなところにおいて感得されているのか。先に述べたように、世界が美しく感じられるところ、喜びが感じられるところ、とりわけ、「有り難い」という思いが生じるところである。そこにおいて、われわれは、重力の支配する宿業の世界にあって重力を離れたところ、自由なところに立つのである。
 われわれの生きている世界は我執に囚われた世界であり、「白骨累々たる世界」(『講義集』第一巻、九五頁)、死骸に満ちた世界である。それは「何ら生気のない世界、満足のない世界」(同前)、いつでも不満と怒りに満ちた世界である。そういう世界の中にあって、「有り難い」という思いが生じるのは、そこに、われわれの生きている世界を支配している原理とは異なった原理がはたらくからである。その原理が本願である。宿業の世界を支配している原理が「重力」であるなら、本願はその中にあって重力とは逆方向にはたらく「揚力」である。
 有り難いという言葉ほど尊い言葉はない。この言葉は仏法を知らなくてもいうが、仏法の言葉であると曽我はいう。注目すべきことは、「有り難いということは、一つの歴史的感覚というものに触れるのである。畢竟するに、この過去の死骸、生命の終わった概念である」(同前)と曽我が述べていることである。有り難いという思いが歴史的感覚であるというのは、それは宿業の大地、つまり、歴史的世界において感得されることによって、人間を宿業の世界の重力から解放するものだからである。そして、その有り難いという思いが人間に出現する源にあるのが「本願」である。
 有り難いという思いが出現するとき、世界の眺めが変わってくる。時間の流れの方向が変わり、未来が開かれてくる。時間は、過去から未来へと空しく一律に流れてゆくことをやめて、未来から現在へと流れてくるものとなる。
新しいものは未来にある。ただ宿業を繰り返すだけのところに、未来はない。ほんたうの現在がないからである。純粋の未来、無限定の絶対から、現在を逆観する。さうすると、現在には、手も足も出ない宿業の世界、どこまでいっても割り切れない過去の世界が働いていると共に、割りきれぬものは割り切れぬままで、いくら流転輪廻しても、之を超越し、それにいささかも苦しめられない清新な、絶対自由の世界がふくまれている。未来は、現在の向ふところにあるといふが直線的に前にあるのではない。迷うても迷うても迷の底知れぬ過去の宿業の暗い世界を担うている現在には、又、我々の分別でははかり知れない大きな未来が裏付けとなっているのである。その未来によって、初めて、現在が有限にして又無限なる現在であり得る。(『講義集』第一巻、一三九頁)
と曽我はいう。
 如来の本願が形を変えて、衆生の歴史的世界にはたらいているのを感得するところに、還相回向の思想が生じた。曽我は、如来が衆生の世界に出現してはたらくことを一括して「大還相」と呼んでいる。この大還相の中にいわゆる往相・還相という第二次の還相が成立する。それゆえ、二種回向の運動はその根源の大還相の中で捉えなければならない。この二種回向の交互展開を通して、大還相としての如来の本願は衆生の歴史的世界を貫いて流伝し、流行してゆく。その様は、音楽が時間において休止・運動のリズムを介して展開してゆくことに似ている。回向の往相が休止なら、還相は運動である。このように回向の往相と還相を介して、本願の歴史は展開してゆくのである。
 そういうことから、曽我は、往相・還相の二種回向を、歴史を貫いて本願が流伝していく様を捉えたものとして、「歴史観」という。歴史的世界に生きる衆生は、その本願力に触れて、歴史的世界の業苦を超えたところに立つ。そこに「安心」がある。安心とは、本願力に触れて衆生の住むべき世界が開かれることである。それゆえ、曽我は、安心は「世界観」であるという。こうして、曽我は『教行信証』という織物は、二種回向という、「歴史観」を縦糸とし、安心という「世界観」を横糸として織られているという。
 親鸞は、そのような「弥陀の本願の歴史性」に深く思いを致しつつ、その本願を説いた釈尊を「教主世尊」と呼んだのである。

長谷正當『本願とは何か 親鸞の捉えた仏教』五四-五七頁

とても心に残ったのが次の言葉「 われわれの生きている世界は我執に囚われた世界であり、「白骨累々たる世界」、死骸に満ちた世界である。それは「何ら生気のない世界、満足のない世界」(同前)、いつでも不満と怒りに満ちた世界である。そういう世界の中にあって、「有り難い」という思いが生じるのは、そこに、われわれの生きている世界を支配している原理とは異なった原理がはたらくからである。その原理が本願である。…有り難いという言葉ほど尊い言葉はない。…注目すべきことは、「有り難いということは、一つの歴史的感覚というものに触れるのである。畢竟するに、この過去の死骸、生命の終わった概念である」と曽我が述べていることである。有り難いという思いが歴史的感覚であるというのは、それは宿業の大地、つまり、歴史的世界において感得されることによって、人間を宿業の世界の重力から解放するものだからである。そして、その有り難いという思いが人間に出現する源にあるのが「本願」である。」

有り難いという心は普通に生活をしていたら出てこない言葉である。何か日常の出来事を超えたことに出会ったときに初めて出てくるこゝろである。そしてその有り難いという心が出現する、源にあるのが本願であるという。人間は本願に出会いたいのである。
しかし日常はまさに、我執に囚われ白骨累々たる殺伐とした世界である。そのなかでは、まずありがたいなどという言葉は出てこない。何をしてもらっても当然で生きている。現代の資本主義社会は、それをますます加速させていると思う。全部お客様気分である。すべてが予定調和に出てくることが予定されていて、それが崩れるとイライラしたり怒りがわく。そこにありがとうの気持ちはない。しかし私たちが本当に触れたいのはありがとうという心ではないか?
仏教の勉強をしていたとしても、それを自分が利用するとき「有り難い」という思いなど全くない。。。しかし、今日長谷先生と、広瀬惺先生の本を読んでいて久しぶりに有り難いの気持ちが思い起こされた。それは、本願に触れたからなのかもしれない。


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