毎田周一 懺悔について⑴

今思想家の毎田周一が懺悔ということをどう考えたか調べているが、毎田は懺悔に関して多様に語っており、それらを統一的に見ることは難しい。可能なのは広く資料にあたり、前田の懺悔の諸相を描写することであろう。
毎田の懺悔思想において、重要な資料となるのは論文「親鸞聖人論ー教行信証信巻末懺悔の研究ー」『全集』四pp.541-558である。

今回は、この論文に収められているいる、文章を抜き書きしていきたい。

まずもって、毎田がいう「教行信証信巻末懺悔」とは何か?以下の文章のことである。

誠に知んぬ、悲しき哉愚禿鸞。愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばす、真証の証に近づくことを快しまざることを。恥づ可し、傷む可し。

親鸞『教行信証』「信巻」

毎田は以下のように述べている

愛欲・名利の欲念に迷ふのみの、一箇、忘恩・謗法の徒として、自らを発見せられた親鸞は、最後に「恥づ可し、傷む可し」といはざるを得なかった。「恥」とは何か。自らが自らの底から消されてゆく思ひである。自らの底に、その底を超えたる絶対者に面し、その権威の前に自己の存在が消されゆく思ひである。消えてなくなり度い、穴あらば這入り度いといふそれである。内在的超越に面する宗教的感情は、この外にはない。これは内面的な、一種の無の感情である。ここから親鸞は絶対無に触れてゆかれたのである。といふよりも絶対無が親鸞の裡にかかる感情として働き出たのである。これが親鸞の宗教感情の底を示し、そこに親鸞の全面的抹殺がある。
初めの愚禿鸞の鸞がここに強く響いている。親鸞は他人を見て居られるのではない。只親鸞一が親鸞に対して居られる。その親鸞一箇が消されてゆく感情である。内面的といふ所以である。親鸞一人消えてゆくべきである。恥は他に対する感情ではない。自己が自己に対する感情である。而も自己の底から消されてゆくのである。単に外部的超越に絶対者を見るものには、この感情は湧いて来ない。内在的超越に面してのみである。ここに仏教的なるものがある。何を見ても自己に帰ってくる。この恥の感情を契機としてのみ、東洋的に宗教的なものが働くのである。聖徳太子が「愚心及び難し」といはれたやうな処に、東洋的宗教的なるものの、純乎として純なる立場がある。これが親鸞に於いては恥となった。
恥に於いて私たちは内部的に消されてゆくと共に、その私達を消すものと一である。そこに「無」が具現する。恥を通さない「無」の如きは単に考えられた無に過ぎない。恥に於いてのみ無は現れ、私達はその無と一である。ここにいはれた「恥づ可し」こそは、親鸞に於ける無の表現である。既に無である。無という絶対者がここに働くのみである。親鸞は「恥」として仏教的「無」を味はれた、体得されたのであるといふべきである。既に親鸞はここに斬られた、殺された。何ものもなき親鸞である。内在的無としての親鸞である。といふことはすでに親鸞が絶対無の世界へ放たれているといふことである。
西田博士はいって居られる。「真の懺悔と云ふものには、恥と云ふことが含まれていなければならない。……それは自己の根源に対してでなければならない。……自己の根源に対して自己自身を投げ出す、自己自身を棄てる、自己自身の存在を恥ぢると云ふことでなければならない」(哲学論文集七、一一九-一二〇頁)と。恥なき処に宗教もない。東洋的宗教はない。仏教はない。ここでは仏教が唯一字の「恥」として捉へられているといふべきである。恥を知る、それが宗教であり、仏教である。それが仏教の無である。
自己が自己に対して、その見る方の自己が消えてゆく、無に帰することを「恥」といふならば、その見られた自己が、棄て去られ、投げ出された姿は「傷む可し」である、傷ましいとは、「悲惨」といふことである。そこには悲惨の自己を見ている自己がある。この自己は先に恥に於いて無に帰した自己なるが故に、無としての自己、真実の自己としての絶対無である。これが投げ出された悲惨な自己を見ているのである。既にここに凛然たる親鸞を私は感ずるのである。自己は悲惨なるもの(浅間しきもの)として、そこに絶対無の裡へ投げ出され終わっている。何ものにも捉はれるひつようがあらう。清浄無垢の絶対無のみである。ああ正に清浄無垢の親鸞である。懺悔の極まるところ、かかる親鸞を私達は見出したのである。清められた親鸞、即ち救はれた親鸞である。ここに親鸞の絶対無の超証がある。
そこに必然的に出てきたものは、念仏であったに違ひない。この懺悔こそは念仏の心であるからである。善導大師は「念念称名常懺悔」といはれた。懺悔なき念仏はない。実にその「南無」こそは懺悔である。無である。自己の無である。絶対無である。そこに絶対自由の世界に放たれることをこそ、「阿弥陀仏」(光明無量・寿命無量)とはいふのである。南無するものの世界は、阿弥陀仏である。絶対無の世界である。かの悲しみの果てに、この絶対自由の歓びがある。「喜ばず」「快しまず」といはれた、その親鸞の心を超えて、これを消すやうに湧然たる歓喜がある。これ絶対自由の超証なるが故である。
私はこの懺悔こそは、念仏の心であり、その念仏一つを明らかにせんとせられし「教行信証」全巻の中核的生命をここに発見すべきであると思ふのである。この懺悔の一文四十字を要約すれば、只六字の名号となる。そして称名となる。称名の心は正にこの懺悔なのである。私達はここに親鸞上人の御命を頂くのである。
私はこの信巻末懺悔の一文こそは、日本の精神史が生み出した、或ひは世界の精神の歴史に比肩するものなき、深刻無比の魂の言葉であると思ふのである。親鸞の仏教はここにある。日本仏教はここにある。否、
仏教はここにある。
(31,1、30)

「親鸞聖人論ー教行信証信巻末懺悔の研究ー」『全集』四pp.541-558


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