毎田周一の懺悔に関する言葉

安養浄刹、浄土に往生せずしては救はれない、無有出離之縁の自己と知らしめられるとき、始めてそこへ救はれゆく、大利を思ひ知らされる。さきに智慧といひ、真理の閃きといったが、此の極悪深重の衆生としての自己、この肉体を具へてゐる限り、到底この世にては、清浄の仏果に到り得ない自己と知らしめられることの外になく、この懺悔を外にしてはないのである。世間虚仮、即唯仏是真である。
この懺悔のとき、完全に私達を支へて下さる仏願難思の至徳に乗じてゐる自己と知る。無疑無慮、乗彼願力、定得往生といふ、この法の深信を体験せしめられる。かの安養浄刹に必ず到らしめられる、不可思議の仏の願力の極まれる働きがあって、私達の自我を完全に打砕くのである。ここにこそ一乗法があるのである。誓願一仏乗があるのである。
一乗は非一非非一として、無数法として、一切の衆生を、その一人々々を、まさしく聖人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」
といはれし如く摂取するのである。それは無数法なるが故である。多即一なるが故である。ここに仏願難思の至徳たる絶対肯定がある。
しかしこの絶対肯定に到るのは、安養浄刹に到らずしては成仏することを得ざる、この世に於ける徹底的な懺悔、即ち絶対否定を通過してのことである。だからこの一乗を結ばれる言葉は、機法二種深信を「覚悟」として領受することでなければならない。

『無条件の救済』八四頁

毎田における懺悔の一つは、到底この世では真理に到ることがない。死んでしかさとりに到ることができないという自覚である。この気づき、自己の罪悪性・生きている間は真実になどなれない我であったと気づくこと。この気づきが懺悔と呼ばれている。毎田はこれを「絶対否定」と言っているが、これは絶対否定なのだろうか?


海は屍骸を宿さず、必ず波打際へうち上げてしまふといはれる。「宿さず」に到って祖音否定は徹底的となる。絶対否定となる。
二乗雑善の自力の迷信が、完全に粉砕されることなくしては、願海に摂取されないのである。ーーー絶対に否定されたところで、始めて絶対に肯定されるのである。
自力の喪失が他力の摂取であって、かの「転」はかかる働きをもつものである。即ちここに徹底的な内省の問題がある。即ちかの「転」は、主体的には「懺悔」を契機とする。これなくして転はない。念々称名常懺悔といはれるが如く、称名は必ず懺悔を伴ふ。称名の南無こそは懺悔である。自らが極重悪人として投げ出されることなくして、この世界を平常底として、真理の表現として頂くことは出来ない。
「願海」以下は、かの海の譬喩の核心たる「転」の内省的契機、即ち懺悔を不可欠とすることが指摘されたのである。
二乗の中下といふも、既に仏道を志しているものである。次の「人天」は、まったく世間的立場の人である。(天-神の如きもの迄、一緒に巻き添えを喰っている。)「虚仮」はいつはり、世間といふものはそこに成り立っている。なぜならばそこに徹底的な内省を欠いているからである。「邪偽」は前者が、よいことをしている積りでも、内省の欠如のために嘘となっているのに対して、むしろ積極的ないつはりである。この二つを受けた「善業」は、前者に関しては善いことをやっている積りなのであり、後者はやってみせる善なのである。
「雑毒」は縷々いふ通り、利己心を雑へていること、「雑心」は、あれこれと気が多く、散乱していること。あれもいいことだ、あれをせねばならぬ、これもいいことだ、これもといふやうに、まとまりと統一がない。それは自己といふものが維持せられている以上、外部からの刺激によって、種々に動くのである。この自己がなくなってしまへば、そこに真理の一道、ひとり清閑なりとなるのである。
これらの人天の無内省と散乱をさして、その根底にある自己肯定を剔抉せられる。矢張り自力の執心、自我愛、利己心である。これが粉砕されざる限り、願海には摂入されない。
かかる絶対否定を敢行するものは、かの名号である。これによって、私達の高慢心が徹底的に砕かれ、完全に頭を下げしめられる。その時始めて絶対肯定の、真理の世界に、願海に、私達は摂取される。即ち「転入」するのである。いまや「海」の意義は、全く明らかにされた。

『無条件の救済』九〇頁

毎田のいう「知的転換」とはどういう意味なのか?

道徳的立場の背景には必ず「自己肯定」が前提されている。この絶対否定によってのみ、懺悔を通してのみ、金剛の、他力の信は与えられるのである。ここに私達の救いがある。ここに道徳的立場の徹底的粉砕がある。そして自然法爾の、平常底の世界が展開せられる。これ絶対自由である。
ここ迄親鸞の批判は徹底して来る。例えばカントが実践理性を批判するといっても、この自己の粉砕に到っているか。それはまことに生温い実践理性の批判にしか過ぎない。何故ならば、自己を批判するこの自己すら投げ出されてしまはなければ、真の批判とはいひ得ないからである。
ところでこの親鸞の徹底的批判は何処から来ているのであるか。それは「愚禿」親鸞の自覚から来ている。そして愚禿ということの外に「真理」はない。親鸞の批判はこの唯一の真理に拠られしものなるが故に、実に絶対的批判となってゐる。自己を全体として投げ出した人の批判は、斯くも厳しいものである。「愚禿」親鸞の批判は厳しい。普通には愚禿と自覚したものに、どうして人を批判することができるか、と思はれるのである。ところが愚禿となりし人には、何でもできるのである。如何に思ひ切った批判でも行動でも何が出来るのである。明け放たれて、明かるく、そして直截に、何事をもいひ、何事をも為し得る、これが他力信の自然的風光なのである。

『無条件の救済』一〇六-一〇七頁

「この絶対否定によってのみ、懺悔を通してのみ、金剛の、他力の信は与えられるのである。」毎田は懺悔・絶対否定を通して初めて他力の信が与えられるということを強調している。それは単なる批判ではなく、自己全体を投げ出すことだという。しかしそのことの意味がよくわからない。自己全体を投げ出すとはどういうことなのだろうか?毎田はこの辺をちゃんと描写しないという感じがする。やや詩的表現でごまかしているといってもいいかもしれない。しかし詩的表現しかできないというところにも大切なことがあるのだろうと思う。

→どうやら、その自己を投げ出すということは簡単なことではない。そして、その自己を投げ出すというプロセスが定散の自心に迷うというところにあるようである。これがおそらく親鸞において化身土巻に展開されていると毎田はおさえているようである。

この天親の「一心」を親鸞は「信」とせられた。この一心を開明せんがためには、第十八願の本願三心「至心・信楽・欲生」を如何にして「一心」として頂くかといふところに問題があり、この問題を解くより外に途はない。確かに如来の三心を衆生が頂くときには、一心として受けるより外はないのである。

『無条件の救済』一〇九頁

「利他深広の信楽」ーー前述の回向は、ここに「利他」といはれる。無論如来が利他せられるのであって、その衆生救済の働きは、「深広」である。深とは自覚の深さであり、広とは大悲同感の全衆生を一人もあまさぬ広さである。真理そのものの生命が、かく私達に深く(自覚を呼び醒まし)広く(世界の果てまでも)働きかけてきて、救済の大用をなすのである。そこによび起こすものは「信楽」である。真に必然的に伴ふところの歓び(「楽」は歓喜)がある。この歓びこそは救はれしものに必ず備はるところのしるしである。

『無条件の救済』一〇九頁


妄念そのままが浄信なのである。このそのままを観得する限りに於いて、これが他力の信である。そのままの観得とは一つの閃きである。真理の閃光である。ここに獲信がある。…中略…「虚偽ならず」は、そこに真実があるといふこと、真実とはさきの平常底以外の何ものであらうか。虚偽があれば、そこに虚偽ありと、明からさまに見られるのである。嘘をつけば、そこに噓つきが実在しているのである。噓つきといふ事実・真実があるのである。あからさまに私たちの真実が見られるのである。(後に末巻に到って「誠に知んぬ、悲しき哉愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して…」と述懐せられるが如くである。この懺悔を外にして何処に真実があろう。そこに聖人の深くして尽きざる歓びの湧けるを見るのである。)

『無条件の救済』一二一-一二二頁

毎田は親鸞が信巻に述べる「 まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。」の一文を、懺悔の極まりとみている。この文を懺悔と述べるのである。しかし親鸞は、これを懺悔とまで言っていないことに注意が必要である。毎田のいう懺悔と親鸞の言う懺悔は違う。
毎田はなぜ親鸞の懺悔を、真実と見て、さらにはその懺悔を歓びと見るのだろうか。
自己の本当の姿を知らされるからではないだろうか。

「弥陀如来、三心を発したまふと雖も、涅槃の真因は唯信心を以てす」ーーここに信心とは、前述の愚鈍の衆生と自己を知ることである。ここに自己の全体が擲たれる。これ無我である。この無我の世界(境涯)を涅槃といふのである。真因とは、真理の因である。真理を知るということの外に、涅槃はない。ところでその真理とは何であるか。私が愚鈍である、といふことの外に何があらうか。だから愚鈍の身と知るといふ此の真理の因によって、私達は涅槃(滅)に到るのである。この滅とは一切の煩悩の滅である。それは一切の煩悩を相手にしなくなること、それに捉われなくなること、流るるものを流るるに委せること、煩悩は煩悩のあるがままとなること、即ち平常底が滅である。これは無我の境涯である。真に愚鈍の身に徹すること、一心である。信心である。信心とは他の語を以てするならば、真理の認識である。これを外にして、涅槃に到ることは出来ない。何故ならば涅槃は真理の世界だからである。この唯一の往生の因としての信心、これを一心といはれたのでもあらうかといはれるのである。

『無条件の救済』一二七頁

そうか、毎田は懺悔可能であり、無我の境涯に、この世で到れるととらえているのだな。親鸞は懺悔が不可能とおさえている。懺悔可能とは決して言わない。しかし毎田は、無我の境地に到れると言ってしまう。ここに違和感がある。私からするとやや奇異に感じられる。しかしここには時代背景や、毎田の思想課題もあると思う。毎田は教育者であった、生きながら人間が変わっていくということを課題にしていたと考える。

「一切の群生海」私達人間を含めて一切の生きとし生けるものは、「無始より已来」その始まりを知らぬといふのであるから、根源的・本質的に、而も「乃至今日今時に至るまで」現在の自己を見よである。「穢悪汚染にして」欲と迷ひに汚されて、何のよきことも為すことを知らず、悪として為さざるはない。そこに「清浄の心無く」清く美しい、利己心の汚れを知らぬ心ざまなどを一片も発見することは出来ない。そして「虚仮諂偽にして」うはべだけの体裁を整へたその心は、他に対しては媚び諂い、天真の心の動きざまなく、内心と行為とは正反対である。だから「真実の心無し」まごころなどのかけらもない。
私は愚禿悲嘆述懐和讃の第一首を思ひ浮べざるを得ない。「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになり」と。そして無始より已来といふ語に、アダムの原罪以上の深遠な、徹底的な、根源的・本質的な、人間の堕罪をみる。底を知らぬのである。ここに親鸞は、自己内心の真相を剔抉された。すでにここに聖人の痛烈な懺悔をみる。そしてこれが人間の内心といふものの真相以外の何ものであらうか。自己中心の利己心の姿であり、従ってこの心は全く主観的である。だから己を空しうしてのみ捉えることの出来る、事物の真相と真実を捉へ得よう筈がない。これ「真実の心無し」といはれる所以である。

『無条件の救済』一二七頁

『無条件の救済』一五三までのメモ終わり

(終)










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