毎田における懺悔の一つは、到底この世では真理に到ることがない。死んでしかさとりに到ることができないという自覚である。この気づき、自己の罪悪性・生きている間は真実になどなれない我であったと気づくこと。この気づきが懺悔と呼ばれている。毎田はこれを「絶対否定」と言っているが、これは絶対否定なのだろうか?
毎田のいう「知的転換」とはどういう意味なのか?
「この絶対否定によってのみ、懺悔を通してのみ、金剛の、他力の信は与えられるのである。」毎田は懺悔・絶対否定を通して初めて他力の信が与えられるということを強調している。それは単なる批判ではなく、自己全体を投げ出すことだという。しかしそのことの意味がよくわからない。自己全体を投げ出すとはどういうことなのだろうか?毎田はこの辺をちゃんと描写しないという感じがする。やや詩的表現でごまかしているといってもいいかもしれない。しかし詩的表現しかできないというところにも大切なことがあるのだろうと思う。
→どうやら、その自己を投げ出すということは簡単なことではない。そして、その自己を投げ出すというプロセスが定散の自心に迷うというところにあるようである。これがおそらく親鸞において化身土巻に展開されていると毎田はおさえているようである。
毎田は親鸞が信巻に述べる「 まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。」の一文を、懺悔の極まりとみている。この文を懺悔と述べるのである。しかし親鸞は、これを懺悔とまで言っていないことに注意が必要である。毎田のいう懺悔と親鸞の言う懺悔は違う。
毎田はなぜ親鸞の懺悔を、真実と見て、さらにはその懺悔を歓びと見るのだろうか。
自己の本当の姿を知らされるからではないだろうか。
そうか、毎田は懺悔可能であり、無我の境涯に、この世で到れるととらえているのだな。親鸞は懺悔が不可能とおさえている。懺悔可能とは決して言わない。しかし毎田は、無我の境地に到れると言ってしまう。ここに違和感がある。私からするとやや奇異に感じられる。しかしここには時代背景や、毎田の思想課題もあると思う。毎田は教育者であった、生きながら人間が変わっていくということを課題にしていたと考える。
『無条件の救済』一五三までのメモ終わり
(終)