研究メモ 「他力釈」①
「他力釈」に何が書かれているのか?
『教行信証』「証巻」の結釈に次のような文章がある。
ここで、親鸞が「他利利他の深義」と示すものは、曇鸞著『論註』の「利行満足章」にある文章のことを指す。かかる文言は、「行巻」の「他力釈」に引用されており、この「他利利他の深義」が親鸞思想における「利他」概念の理解に大きな影響を与えていると考えられる。そこで、「他力釈」において利他がどう語られているのかを見ていきたい。
親鸞は「他力釈」の冒頭に、「他力といふは如来の本願力なり 」と釈したあとに、『論註』の利行満足章から、かなり長い引用をする。
かなり長い文章のため便宜上①~⑤に分けて検討したい。
①『論註』においては、行者の自利利他について説かれていた文章であった。しかし、親鸞はそれを、如来の本願力・他力の意味を明らかにするために、法蔵菩薩の修行としたのである。(桐渓順忍『『教行信証』に聞く』上巻、二九九頁)親鸞は、いわゆる「約仏」(灘本愛慈『顕浄土真実行文類講述』一九三頁)の訓点を施すことで、法蔵菩薩が修した五念門・自利利他とみていくのである。阿弥陀仏の利他の力用が本願力であると示される。
自利利他は別のものではなく、法蔵菩薩はよく自利が満足したので、利他の用きをすることができると説かれる。そして、法蔵菩薩の自利利他の因果成就したことが示される。「成就とは、いはく回向の因をもつて教化地の果を証す。もしは因、もしは果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。」とある。利他の行が成就するとは、衆生に功徳を回向しようとすることが因となり、衆生を教化するという結果が生まれたと説かれる。法蔵菩薩の回向の修行が因となり、教化地という果があると説かれる。因といい果といい、一時として法蔵菩薩が衆生を利益しようとする「利他」の用きでないものはないと示される。
②問答になっており、なぜ願生者が、速やかに阿耨多羅三藐三菩提という仏の覚りを得ることができるのかと問われる。それに答えて『浄土論』によれば、法蔵菩薩が五念門の行を修して自利利他の功徳を成就したからだという。
③は真宗教学において伝統的に「覈求其本釈」と呼ばれてきた部分であり、「覈にその本を求めれば」と示され、菩薩の自利利他が成就するのは、ひとえに阿弥陀如来を増上縁とするからであるといわれる。増上縁とは、すぐれた因縁(力)の意味である(灘本愛慈『顕浄土真実行文類講述』一九五頁
)[ 灘本愛慈によれば、ここにおいて「「増上縁とす」とは直接原因に対して間接原因を「縁」というような、いわゆる親因疎助の助縁の意ではなくて、「増上」は殊勝の義、「縁」とは因縁のことで、増上縁とはすぐれた因縁(力)の意」と説示している。真宗教学の歴史の中でも「増上縁」をどう受け止めるのか様々な議論があるが、本論ではこの灘本の論に従いたい。(灘本愛慈『顕浄土真実行文類講述』一九四-一九五頁)]。
④は「他利利他の深義」といわれる文である(灘本愛慈『顕浄土真実行文類講述』一九五頁)。
「他利と利他と、談ずるに左右あり」他利と利他は「その表現方法」(信楽峻麿『教行証文類講義』第二巻、四五一頁)について相違があると、曇鸞は示すのである。もし、仏の立場からいうなら、仏が他なる衆生を利益される、つまり他を目的語とするのだから、「利他」というべきである。それに対して、衆生の側からこの事態をいえば、衆生が仏によって利せられるのであるから、「他利」というべきである。「他利」とは「衆生が利せられる」という意味であり、「利他」は如来が衆生を利益することである。いまは、阿弥陀仏の仏力を語るところであるから、「利他」というのである。さらに、「まさに知るべし。この意なり」と、他利と利他の差異をよく心得るべきであると強調される。
⑤以下では、衆生が浄土に生まれることも、また浄土に生まれた菩薩が善根功徳の行業を修めることも、すべて阿弥陀如来の本願力によって成り立つと説示される。もしそれが仏力によるのでなかったとすれば、阿弥陀仏が建てた四十八願は、徒に設けられたものとなってしまうと説示される。これ以下、衆生の往生成仏の因果において特に最も重要な三願を選び取りその意義を明らかにされていくのである。
以上みてきたように、「他力釈」「他利利他の深義」において、「利他」は阿弥陀仏の仏力をいうものであるということを親鸞は『論註』の説示を通して明らかにし、「ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり」と讃嘆するのである。親鸞の上においては、「利他」は如来の利他であり、決して衆生の心で利他行をすることが「利他」ではないのである。これが、真宗教学において「利他」を考える際に決して外してはならない点であると考える。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?