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「巡礼」1 

あらすじ
 風岡都かざおかみやこは、絶望のどん底に突き落とされた。父の再婚相手の娘であるあかねに、恋人のりょうを奪われたためだ。茜は良の子を妊娠していた。
 失意の都は、父のはからいで、アメリカに語学留学する。ホームステイ先は日系アメリカ人夫妻の家だった。それがきっかけで、帰国した都は大学院で日系アメリカ人史を専攻することになる。研究を進めるうち、都はある日系二世の兄弟と出会い、茜と良への思いが変わっていく。
 時代と国を超えて展開される絶望から再生への物語。


プロローグ

 花冷えのする朝、80歳を超えた老人が二人、ぎこちない足どりで墓地に入っていった。23歳の風岡都かざおか みやこは水で満たした手桶と花を携え、二人を気遣うように付き添っていた。都は寒さが二人の体に障らないか、冷え込みで桜の開花が遅れないかと気をもんでいた。

「55年ぶりだよ」
 老いても堂々とした体躯の兄が、痩せ型の弟を振り返って言った。
 兄は先導して墓地を進み、「原田家之墓」と刻まれた墓の前で足を止めた。原田家のために区切られた縦長の敷地の突き当たりに、年季の入った墓石が鎮座している。その傍には、黒ずみ、苔生した小さな墓石があった。

「原田家の墓だよ。叔父の家に預けられた中学時代、何度も来た」

 通り抜けていく風が、寺を守るように繁る竹林をざっと鳴らした。

「この音は覚えている」
 兄は目を細め、竹林を振り仰いだ。

 都は学生服に身を包んだ美しい少年が、墓の前で手を合わせる姿を思い描いた。ここに建つ墓石は、そんな少年の姿も見守ってきたのだ。都には、墓地は過去と現在が一番接近しやすい空間に思えた。

「これが君の墓だ。ちゃんと残っている……」

 兄が弟を振り返り、小さな墓を指差した。弟は恐る恐る歩みを進め、原田彰之墓はらだ あきらのはかと刻まれた墓石に手を触れた。都には、幾多の風雨にさらされて黒ずんだ墓石が、兄弟が別々に生きてきた時間を形にしたように見えた。
 弟は都から柄杓を受け取り、複雑な表情で何度も墓石に水をかけた。積年の埃と砂が洗い流されると、側面に刻まれた「昭和二十年五月十一日 海軍大尉かいぐんだいい 原田彰 享年二十六歳」という文字がかろうじて読み取れた。

「半世紀以上、自分の墓があるなんて知らなかった」
 口数の少ない弟がぼそりと言った。

 二人は一見すると日本人の老人に見えたが、アメリカ生まれの彼らの会話は、大半が英語でなされていた。

「アメリカで生まれ育った君が、あんな死に方をしたと知って、不憫でならなかった。どうしても君の墓を、この世に存在した証を残してやりたかった」

「ありがとう、ミツ……」
 弟が長身の兄を振り返り、二人の視線ががっちりと絡んだ。

 半世紀以上、別々に生きてきた二人は、ゆかりの地を訪ねながら心の距離を縮めてきた。最後の地を訪れた二人の表情はこれまで見たことがないほど穏やかだった。

 兄が都を振り返って言った。
「都さん、私と彰はここまでくるまでに半世紀以上かかった。私たちのように、時間を無駄にしてはいけないよ」

 都は兄の言葉にこみ上げてくるものを感じながら、自分が彼らに付き添ったことの意味に思いを馳せた。


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