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「巡礼」 11

 その期待は見事に裏切られた。

 良は悲壮な顔で居間のソファに掛け、その傍らに寄り添うように茜が座っていた。血色の良かった良の両頬はげっそりとこけ、目の下にはクマができていた。2人には声をかけるのもためらうような重い空気が流れていた。


 集まった家族を前に、うつむいていた茜が消え入りそうな声で言った。
「良さんの子供ができたの。いま8週間だって」

「こんなことになってしまって本当に申し訳ございません。僕は茜さんと結婚して、子供を育てるつもりです」
 蒼白な顔の良が、絞り出すように言った。

「松倉さん、一体どういうことですか」
父が困惑と怒りを隠せない声で詰問した。

「どういう……、どういうことなの……?」
 都は乾いて呂律の回らない口を、酸素不足の金魚のようにぱくぱくさせて尋ねた。都は、目の前で進行する昼メロのような事態が現実と認識できなかった。他方で、他人事のように事態を冷静に観察しているもうひとりの自分もいた。

「本当なの、茜?」
 貴和子さんが、動揺を押し殺した声で尋ねた。

「良さんの子に間違いないの。私、生みます」
 茜は潤んだ目で母の顔を見据え、しっかりした声で答えた。

 その瞬間、都は立ち上がって茜に掴みかかろうとした。だが、それより一瞬早く、貴和子さんが茜の頬を打つ乾いた音が響いた。

「何てことをしたの! 良さんは……、都ちゃんの婚約者でしょっ!」

 父が半狂乱になった貴和子さんを押さえつけた。京輔は無様に倒れた茜を助け起こそうとしていた。良は両膝に手を乗せ、頭を垂れて座ったままだった。

 立ち上がった都は、自分のバッグをつかんで家の外に飛び出した。どこへ向かっているかわからないまま夢遊病者のように歩き続けた。これは夢だ、悪い夢を見ているに違いない……。家から遠ざかれば、悪夢から逃れられる気がしてずんずん歩いた。

 気がつくと都はアパートの布団に寝かされ、勉強机の椅子に心配そうな顔をした京輔が座っていた。目だけ動かして枕元の時計を見ると22時を回っていた。追いかけてきた京輔が都の腕を掴み、タクシーでアパートまで送り届けてくれたことを思い出した。京輔は錯乱した都を布団に押し込み、強引に寝かしつけたのだ。枕元に胡座あぐらをかいた弟は、焦点の合わない目をした都を心配そうに覗き込んでいた。

「良は?」
 都はか細い声で尋ねた。

「何度も姉貴の携帯にかけてきてる……。俺が出て、姉から連絡させるって言っといた」

 都は力なく頷いた。体が石のように重く、起き上がる力がなかった。こんな状態になったのは初めてで、自分の体の変化に戸惑った。弟はしばらく何やら話しかけていたが、都に会話をする気力がないと判断すると、近所のコンビニで食料を買ってきて冷蔵庫に入れてくれた。都は弟に感謝し、心配だから泊まっていくと言う彼を電車があるうちに帰した。いじっぱりの都は、これ以上、惨めな姿を見られるのが耐えられなかった。

 それから数日、都は体に力が入らず、排泄するとき以外は布団に横たわっていた。だが神経が興奮した頭は、間断なく思考を続けた。都が心から愛し、将来を誓った良が茜を妊娠させた。茜が良を誘惑したのだろうが、子供ができた事実を受け止め、高潔すぎるほど高潔な彼は責任をとった。良の気持ちが都にあっても、彼は茜と子供を捨てられない。どんなに良い方に考えても2人は以前と同じ関係に戻れない。その現実は都をずたずたにした。
 なぜ、良は家族に話す前に、自分に打ち明けてくれなかったのか。彼はいつでも都に誠実で、言いにくいことも話してくれただけに、それが一番都を傷つけた。きっと茜が、都と会わせたら良が離れてしまうことを恐れ、許さなかったのだろう。自分が傷つかないために、良のための言い訳を考えている自分が情けなかった。
 

 なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか! 母が死んで以来、自分は家事を担い、新しい家族に気を遣いながら孤独に耐えて勉強し、大学に合格した。茜にも、できる限り親切にしてきた。やっと掴んだ幸せは、そんな自分へのご褒美ではなかったのか。自分は幸せになることも許されないのか。悲痛な問いが体中を駆け巡ると、行き場のない思いが涙となって溢れ出し、都は枕に顔を埋めて泣いた。24時間がその繰り返しだった。興奮しきった神経は都を眠らせてくれない。やがてティッシュペーパーが底をつき、仕方なくトイレットペーパーで鼻をかんで涙を拭いた。泣きすぎて目の上がかぶれ、鼻の下がひりひりしてきた。目の上のただれが痛くて鏡を覗くと、ぞっとするほどやつれた顔がそこにあった。近所の皮膚科医院へ行こうと熱いシャワーを浴び、3日ぶりに外へ出ることにした。
 

 白衣の医師を見ると、良を思い出して涙が出そうになった。併設する薬局で軟膏をもらって戸外に出ると、真夏の太陽が容赦なく照りつけてくる。三日間ほとんど食べていないので、歩いている途中で気分が悪くなった。やかましい蝉の声が次第に遠のいていく。視界が灰色になり、きらきらした埃のようなものが舞っていた。都は思わずしゃがみこんだ。無理に立ち上がると途端に立ちくらみに襲われ、ふらふらと公園のベンチに歩いて行って、倒れるように座り込んだ。昨年の夏、良とこの公園を歩いたことを思い出し、嗚咽がこみ上げてきた。こんなところで一人で泣いているのが情けなく、力を振り絞って立ち上がると、覚束無い足取りで家を目指した。涙で歪んだ顔は隠せない。すれ違った若いカップルが、都の泣き顔を見て、何やらひそひそ言っていた。


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