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「巡礼」10


 貴和子さんは、茜が良に教わっているとき、夕食の支度をしながら、さりげなく居間に目を光らせていた。都は二階でやきもきしているよりはましだと思い、貴和子さんを手伝うことにしていた。

 貴和子さんの手の動きには無駄がなく、パズルのピースをはめるように料理を仕上げていく。包丁の音も規則正しく、時計の秒針のようにくるいがなかった。都も小学生のときから包丁を握ってきたが、父に似て不器用なせいか、何年切っていてもスピードが上がらない。だが、茜と台所に立つと、明らかに自分のほうが手際が良いとわかった。茜も母に鍛えられたプライドがあったのか、貴和子さんが都の手つきを褒めると、あからさまな対抗心を燃やしてきた。茜にとって、料理は男を落とすために身につけておかねばならない武器だった。都は日頃の鬱憤うっぷんを晴らせて爽快だった。

 都はぬか漬けの胡瓜きゅうりを切りながら、ちらちらと居間に目をやっていた。良の指導には妥協がない。生徒が理解したという手応えを得なければ、規定の時間を過ぎても指導をやめない。茜が理解できないと、細かく段階を分けて指導し、彼女が一つ山を越えると一緒になって喜んだ。茜は褒められると嬌声を上げて手を叩き、都に勝ち誇ったような視線を投げてきた。良を信じていても、腸が煮えくり返りそうになる。二人が山を超えるたびに芽生える連帯感も面白くない。

 そんな都に気づいたのか、貴和子さんは、ぐつぐつと煮え立つ肉じゃがの鍋をかきまぜながらぼそりと言った。
「あの子を見ていると別れた主人を思い出すの。しなを作るときの目なんかそっくり。自分が育てたのに、いやになっちゃうわ」

 都は凍りついたように包丁を持つ手を止めた。その一言に貴和子さんが長年抱えてきた苦悩が凝縮されている気がした。彼女は娘に見え隠れする元夫の影に、ずっと悩まされてきたのだ。

 貴和子さんは、ふふと笑っていった。
「心配しないで。良さんはあの子をまったく相手にしてないから」

 彼女がそっと都に味方してくれるのも説明がついた。以前から彼女に好感を持っていた都は、この日を境にその思いを強めた。

 家庭教師は茜の期末テストが終わる一月まで。都は残りの回数を指折り数えながら、それまでの辛抱だと自分に言い聞かせた。茜の期末テストが終わったときは、小躍りしたい気分だった。

 
 三年生になると、都は教育実習に追われる日々が続いた。三年次の実習は、科目を受け持つのではなく、授業や実験の補助、放課後のクラブ活動や教育相談など、学校運営に長期間携わるものだった。臨床実習が始まった良も、以前に増して多忙になっていた。

 京輔から妙な話を聞いたのは、物憂げな空が肩にのしかかってきそうな六月だった。京輔が塾に行く前に寄るファーストフード店で、良と茜が一緒にいるのを二度も見かけたという。一度目は五月の連休頃で、京輔が声をかけると、茜が「偶然良さんに会ったので、ご馳走してもらっている」と言い、同席を勧められた。だが、同じ店で二回目に二人を見たときは、二人に流れる空気が重く、茜はハンドタオルで目元を拭っていたので、声をかけられなかったという。

 都は言葉を失うほど動揺した。だが、意地っ張りの都は「何か相談でもあったんでしょう」と虚勢を張って電話を切った。居てもたってもいられず、震える手で携帯電話を取り上げ、できるだけ早く会いたいと良にメールを送った。

 良は、都が京輔から聞いたことをぶつけると一瞬顔色を変えたが、隠しだてはしなかった。一回目は、近くで家庭教師をし、次の時間まで一休みしているとき茜に声をかけられ、そこに京輔も加わったという。二回目は茜から恋人とのことで相談があると電話で呼び出され、同じ店で会ったらしい。話しているあいだ、良は都から目をそらさず、何もやましいことはないと全身で訴えていた。今度茜と会うときは、自分も同席させてほしいと頼むと、良は首を振った。なぜなら、もう茜の相談に乗ることはないからだと断言し、都に嫌な思いをさせたことをひたすら謝った。良の真摯な態度に不安が溶けていった都は、この誠実な男が自分を裏切るはずはないと信じた。念のため茜には、良に用があるときは、必ず自分を通してほしいときついメールを送った。

 平常心を取り戻した都は、再び実習に没頭した。実習の疲れも取れぬまま、箱根のゼミ合宿に向かい、ようやく一息つけたのは七月半ばだった。都は実習で溜めたストレスを良と会って発散したかった。だが、病院実習が続いているのか、彼の携帯は電源が切られ、メールを送っても返信がこなかった。アパートにかけても、いつも留守番電話が返事をした。不安を煽られた都は、半ば意地になって電話をかけ、メールを送り、アパートのチャイムを鳴らした。こんなことは初めてで、居ても立ってもいられなかった。

 良から電話がきたのは七月末だった。彼は、都と風岡家に話したいことがあるので、次の土曜日に実家にいてほしいと有無を言わさぬ口調で言った。大事な話なら、先に自分に話してほしいと頼んだが、彼は都に口を挟む余地を与えずに電話を切った。都は切れた携帯を握りしめたまま、今まで感じたことのない距離を感じ、不安で叫びだしそうになった。もう一度、かけ直そうとしたが、うざいと思われるのが怖く、その衝動を抑えた。なんとか不安を鎮めようと、良い方に考えることに決め、彼が家族の前で自分にプロポーズして驚かすのではないかと根拠のない夢を描いてみた。


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