「巡礼」 12
都の部屋に呼び出された良は、たった数日で頬がこけ、別人のようになった都の形相に驚きを隠せなかった。都には浴びせたい言葉や問い詰めたいことが山のようにあったが、いざ良を前にすると何から言っていいかわからなかった。泣きはらし、怒りをたたえた目をした都を前に、良は一言も弁解せずに土下座で謝り続けた。
石のように口を閉ざしている都に、頭を上げた良が苦しそうに言った。
「一通り話しておきたくて」
都は小さく頷いた。
ファーストフード店で偶然会ってから数日後、茜から電話があり、交際中の相手の気持ちがわからないので、相談に乗ってほしいと頼まれた。都と一緒なら話を聞くと言ったが、恋人がいることを家族に知られたくないので、今回だけは2人で会ってほしいと懇願され、仕方なく同じ店で会ったという。以来、何度か電話がきたが、会うことは断り続けた。だが、ある晩、遅くに帰宅すると茜が部屋の前で待っていて、彼氏に振られたと声を上げて泣きながら抱きついてきた。近所の目があるので、ひとまず部屋に入れ、落ち着いたら家まで送るつもりだったという。
だが、部屋に入った茜は、とんでもないことを口走りはじめた。本当は彼氏などどうでもよく、ずっと好きだった良と2人で会うための口実だった、都には一生黙っているから、今夜だけ抱いて欲しいと懇願した。良は話にならないと部屋から追い出そうとしたが、茜は抱いてくれるまでここを動かないと言い張った。良が「勝手にしろ」と部屋を出ていこうとすると、茜は背中にすがりつき、家族関係の悩みを打ち明け始めた。血のつながっていない都の父は仕方ないにしても、味方だと思っていた実母まで優等生の都の肩を持ち、自分は家に居場所がないと泣いた。家族は家事と勉強を両立して国立大学に入った都を褒め、同じようにできない自分は言いようのない劣等感を抱き続けてきた。都と親しくなろうとしても、彼女は自分を軽蔑して疎んじ、本気で向き合ってくれない。自分がどれほどの悲しみと屈辱を味わったか、良も都もわからないだろうと。
茜の不満は、延々と続いた。家では都と京輔が個室を使っているのに、自分は母と2人の窮屈な部屋に押し込められてプライバシーもない。都が1人暮らしを始めたので、彼女の部屋を使えると思ったが、都の父はそのままにしておいてくれと言う。自分は関西方面に進学したかったのに、母が都の家事の負担を減らすために仕事をやめたので許されなかったと不満を並べた。気持ちが高ぶった茜は、このままでは惨めすぎる、せめて1度だけ抱いてほしいと咽び泣きながら服を脱ぎ始めた。良は彼女を突き放せず、流れに押され、避妊具をつけずに関係を持ってしまったらしい。こうなった以上、自分は責任を取るという。
都は怒りと屈辱に震えた。良はどこまで高潔な男を演じられるのか。これで良は茜を幸せにできるというのか。万人に愛を振りまくこの男は、結局誰も幸せにできないのではないかと思うと、かつての恋人に軽蔑に近い感情が湧いてきた。
ここまでひどく裏切られた自分は、もはや以前のように盲目的に彼を愛することはないだろう。だが、自分は良を心から愛し、良も自分を愛してくれたことは消えない真実だった。自分は、その思い出のなかの良を忘れられず、苦しみ続けるだろう。
都は突き放すような乾いた声で尋ねた。
「本当に良の……?」
彼はその答えが都をどんなに傷つけるかを思い、しばらく苦悶の表情を浮かべていたが、「計算は合う」と低い声で答えた。
「調べられないの?」
都は微かな希望を宿して詰め寄った。
そんな都を前に、良は絞り出すように言った。
「妊娠中は、裁判が関わっているとか特別な事情がない限り、検査できないんだ」
良は都を苦しそうに見ていた。少女漫画に出てくる男性なら、ここで理性が崩壊し、都を抱きしめてしまったかもしれない。
だが、良は一切の執着を断ち切るような毅然とした表情を都に向けた。それを見た都は、良が遠くに行ってしまったことを思い知らされた。良はもう自分を寄せ付けない……。都は崩れ落ちそうな体を気力で支えた。
なぜ良は茜を拒み通してくれなかったのか!誰にでも優しすぎる危うさはあったが、茜の誘惑に飲まれるような男ではなかったはずだ。都は彼の両肩を掴んで揺すりながら、どうしてと何回叫んでも足りなかった。良は必ず避妊具をつける男だった。その慎重な彼が、避妊を忘れるほど茜に欲情したと思うと、屈辱で体が震えた。
都は良の弱さを責め、茜を愛しているのかと問い詰めたかった。だが、彼を知り尽くしている都は、聞かなくても答えはわかった。この高潔すぎるほど高潔な男は、都を愛していても、決してそれを口にしない。彼は都と元に戻れない以上、茜を愛していると言うだろう。その言葉を聞いてしまったら……。
良が血のつながらない妹の夫になる。家族の縁を切らない限り、自分は一生2人の姿を見せつけられる。良の相手が他人ならば、もう会わなければ済むことで、どんなに救われたかわからない。耐え難い現実を前に、彼が本当に愛しているのは自分だという希望にすがりついていなければ、生きていけそうになかった。
茜のことは一生許せない。都の悪口を並べ立てて悲劇のヒロインを装い、良を陥落させたことに、マグマのような憎しみが湧き上がった。良は茜の体調が落ち着いたら、一緒に謝りにくると言ったが、なかなかやってこなかった。都は茜が来なくてよかったのかもしれないと思った。彼女を前にしたら、湧き上がったマグマが噴き出すように罵詈雑言を浴びせ、精神的苦痛で流産させてしまったに違いない。
貴和子さんからは、言葉の限りを尽くした謝罪の手紙がきた。心労で倒れてしまいそうな彼女を気の毒に思ったが、彼女を気遣うほど寛大になれなかった。責任を感じるなら、父と離婚し、自分と茜の姉妹関係を断ち切ってほしかった。そうしてくれれば、少なくとも自分は良を義弟と呼ぶ必要はなく、2人の姿を見せつけられないで済む。
父は自分を責め、自分が再婚しなければ、こんな事態にならなかったと都に謝り続けた。その姿から、「お父さんのせいじゃない」という言葉を求める弱々しさが垣間見え、不愉快だった。本当に悪いと思うなら、貴和子さんと離婚して茜とともに家から追い出してほしかった。
都の気持ちを置き去りにしたまま、実家では茜と良の結婚に向けて話が進んでいた。都が2人を祝福できるわけなどなく、生まれてくる赤ん坊にも憎しみしか抱けない。六条御息所が、光源氏の子を身籠った葵上を生き霊となって呪い殺したことが、怖いほど現実味を帯びて迫ってきた。今の自分に同じことができても何ら不思議はなかった。むしろ、そうできたらと望む自分がいた。
都は刹那の間でも、おぞましい現実を忘れたくて、友人と飲み歩く日々を送った。狭い教育学部で、妹に恋人を盗られた話が知れ渡るのが嫌で、親友の智子にさえ真実を打ち明けなかった。何を見ても聞いても救いの言葉はみつからず、生きていること自体が地獄をさまようようだった。この世に留まる目的が見いだせず、心も体も力を失っていた。