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「巡礼」 3

  風岡家に波風が立ち始めたのは、都がクラス替えで気の合う友人に恵まれた高校二年の夏休みだった。父は都と京輔に、世話になっている料理教室の先生に食事をご馳走したいので、一緒に来てくれと頼んだ。父は都が食事を作るようになっても教室通いをやめなかったので、もう四年になる。社交性に乏しい父が、異性の講師を食事に招待したいと言い出したので、都は女の勘でその女性との仲を疑った。


 都は、母が亡くなってまだ四年なのにというもやもやを抱え、上品な日本料理店での食事会に臨んだ。貴和子きわこさんという料理教室の先生は、父より一つ年上の47歳だった。小柄で痩せ型、器量は十人並み。控えめだが決して陰気ではなく、ほどほどに感じの良い人だった。都は敵意丸出しで彼女を観察していたが、外見は違うものの、話し方や眼差しが亡くなった母を思わせる彼女から目が離せなくなっていた。都は胸を締め付けられるような懐かしさと、母以外の女性が父の心を奪っていることへの嫌悪という矛盾する感情に心をかき乱された。
 

 病院で栄養士として働いていた貴和子さんは、薬剤師と結婚して寿退職したという。夫が愛人をつくって家を出てからは、企業の食堂で栄養士をしながら一人娘を育ててきた。週末の料理教室は、副収入のために十年前から続けているという。物腰は柔らかだが、瞳に意志の強さを宿しているところも亡き母を思わせた。貴和子さんは「一番教えがいのある生徒さん」と父を褒め、教室に来た頃は包丁を握る手もおぼつかなかったのに、今では魚もさばけるようになったと賞賛してくれた。父は終始ご機嫌だった。

 都は和気藹々とした雰囲気を横目に、いつ二人の関係を匂わす発言が出るかと警戒を緩めなかった。だが、遂にその話が出ないまま食事会が終わり、帰宅後に父が彼女の印象を聞くこともなかった。拍子抜けした都は考えすぎだったのかと思い、いつしか彼女を記憶の隅に追いやっていた。

 再び彼女の存在が浮上したのは、その年のクリスマスだった。母が亡くなって以来、風岡家では、都の料理と市販のケーキでクリスマスを祝うのが恒例だった。飛ぶように帰宅した都は、母から伝授されたちらし寿司、父と京輔の好物であるにんにくの効いた鳥の唐揚げに野菜サラダを添えた。京輔は注文していたケーキを受け取り、スーパーで果物を買ってきた。お腹を空かせた二人は、準備万端で父の帰りを待っていた。

 父はいつもより遅く、綺麗な紙袋を大事そうに抱えて帰ってきた。父は笑顔で、貴和子さんが以前の食事の御礼にローストチキンをつくってくれたと都に袋を差し出した。都がいぶかしげに袋を開けると、チキンに染みた香草の香りがふわっと広がった。父と弟は、見るからに立派で、食欲をそそるチキンに歓声を上げ、「美味しい、美味しい」と貪った。二人はいつものように都の料理も食べてくれた。だが、都は自分が作った唐揚げが格下げされたようで、ひどく不愉快だった。父と弟はそんな都に気づかず、チキンを解体することに忙しかった。都は自分の苛立ちに気づかない父や弟との距離が悲しく、階段を踏み鳴らして自室へ駆け上がった。自分の聖域だった台所に、彼女が侵入してきた不快感が稲妻のように体を駆け巡り、クッションをベッドに叩きつけて奇声をあげた。

 ローストチキンをきっかけに、貴和子さんの料理は、たびたび風岡家の食卓に並ぶようになった。父は料理教室に行くと、烏賊飯いかめし鰤大根ぶりだいこん、だし巻き卵、スコッチエッグなど手の込んだ料理を見覚えのないタッパーに入れて持って帰ってきた。都は貴和子さんの手が入っていると直感し、耐え難い嫌悪を感じた。父が作ったと思ってがつがつと頬張る京輔を尻目に、都は料理が食卓に存在しないかのようにふるまい、タッパーを洗わずに放置しておいた。

 父は都の態度に困惑しながらも、貴和子さんとの関係を深めていった。父は大学時代から研究一筋で、寡黙で社会性に乏しい男だった。大学院を修了して、研究所に勤めはじめてからも、女性に縁のないままだった。そんな父を心配した親戚が明朗快活な母と見合いをさせ、二人はろくに言葉も交わさないまま結婚した。

 父が遊びなれた男ならば、子供に嫌な思いをさせずに貴和子さんとの逢瀬を続けられたかもしれない。だが、恋愛とは縁のなかった中年男が熱に浮かされると、手に負えなかった。身なりを気にしなかった父の洋服箪笥には、デパートの店員におだてられて買ったに違いない洒落た服が増えた。洗面所に並んだ男性用の香水は、父が常用する整髪料のにおいと混じり、吐き気を催すにおいを放った。父は料理教室がない週末にも、着こなせない服をまとい、つけすぎた香水の匂いをぷんぷんさせ、いそいそと出かけていった。都はそんな父に不潔なものを見るような眼差しを向け、遠まわしに嫌味をぶつけた。

 だが、高校三年に進級した都は、受験勉強で家事が負担になり、父の色恋沙汰に気を回すどころではなくなった。都の手が行き届かなくなると、部屋の隅や廊下に綿埃がたまりはじめ、風呂場の水垢やガス周りの汚れも目につくようになった。ゴミの出し忘れも目立った。中学で野球部に入った京輔は部活や塾で忙しく、家事に協力する余裕などなかった。家事を手伝わない弟が、下着の替えがないと文句を言ったとき、かっとなった都は金切り声で怒鳴りつけた。反抗期の弟と受験で苛々した姉は、些細なことをめぐる喧嘩が絶えなくなり、顔を合わせれば怒鳴り合いが始まった。夜遅く帰ってくる父がふりまく香水の匂いは、ささくれだった都の神経をいっそう刺激した。都は熱に浮かされた父に、そんな暇があるならゴミの一つでも出してほしいと癇癪を起こした。
 
 今までは、都が勉強で忙しいときは、父方の祖母が手伝いにきてくれた。だが、昨年末、祖母は転んで腰を痛め、思うように来られなくなっていた。父は母の実家と折り合いが悪く、母が亡くなってからはますます疎遠になっていた。母方の祖母は、都が頼めば手伝いに来てくれるが、父は母方の人間が家に出入りするのが窮屈らしく、祖母も父と顔を合わせたがらなかった。一触即発の風岡家は、父の再婚の決意を後押ししてしまった。


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