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「巡礼」17

 ベンはそんな都に気づかず、100キロ近いスピードで州道395号を北上した。ここから数十キロ、20分ほどでマンザナーに着くという。都は行きたくないと言い出せないまま、後部座席で身を固くしていた。だが、心を落ち着けようと車窓の景色を眺めているうち、少しずつ開き直ってきた。生きる目的を失い、幽霊のようにこの世をさまよっている自分は、同胞の亡霊に取り憑かれたならそれでいいような気がしてきた。
 
 やがて、マンザナーの案内板が見えてきた。ベンは収容所跡地に入り、少し走って車を止めた。正面にはシェラネバダ山脈が圧倒的な存在感でそびえていた。抜けるような青空と山々の美しさとは対照的に、跡地内は荒涼とし、寂しそうに建っている電信柱が目についた。乾燥に強そうな植物が、水気のない大地をはうように生えていた。時折、山から吹き下ろす風が砂を巻き上げ、言いようのない寂寥感があった。

「風が強い日は砂嵐が吹き荒れて、部屋に閉じこもっているしかなかったわね」

「ああ、吹き込んでくる砂を掃き出すのが大変だったのを覚えている。朝起きると、布団の上に砂がうっすらと積もっていたね」

「砂のほかに、暑さと寒さもたまらなかったわ。ここは砂漠でしょ。寒暖差が激しくて、朝晩はかなり冷えたの」

「さあ、僕らのバラックがあった辺りに行ってみよう。アイリスの家族と僕の家族は、同じバラックで、部屋が隣だったんだよ。そこで、僕たちは知り合ったんだ」

 ベンに促され、3人は再び車に戻った。収容所跡は車で移動しなければならないほど広かった。

 車から降りた夫妻は、かつてそこにあった風景を心のなかで再現しようとしていた。ベンは都のために、メートルを使って教えてくれた。
「このあたりから向こうまで、長さ30メートル、幅6メートルのバラックがずらりと並んでいたよ。各ブロックには、食堂、洗濯場、アイロン場、男女別のトイレ兼シャワー室があった。1つのバラックには、縦7メートル、横6メートルくらいの部屋が4つあって、1部屋に最大8人くらい入っていたかな。僕らのバラックは、一番向こうから3つ目くらいだったかな?」

「ええ。私の家は6人だったから、ママが部屋の真ん中にシーツを吊るして、2つに分けたの。向こう側に兄と弟とママ、こちら側に私と妹2人のベッドを置いた。パパが釈放されて合流してからは、もう1つベッドを入れてもらったの。プライバシーなんて全くなかったわね。おまけに、隣のベン一家の部屋との仕切りも薄くて、会話は筒抜け。私達がそんな環境に文句ばかり言っていると、ママは屋根があって寝る場所があれば十分だろって」

「アイリスの家と僕の家は、パパ同士の仲が悪くて、最初は僕達もあまり話さなかったね」

「ええ。うちのパパは日本贔屓で、ベンの一番上のお兄さん、マイクがJACL、日系アメリカ人市民連盟で活動していたことが気に入らなかったの。JACLは、私たちがアメリカに協力することを奨励していたから、アメリカの『イヌ』扱いされていたのよ。うちのパパがベンのパパに、息子にJACLから手を引かせろと言ったの」

「うちのパパも、本当は君のパパと同じ気持ちだったと思う。でも、パパは二世の息子に自分の気持ちを押し付けなかった。だから、余計なお世話だと、アイリスのパパと喧嘩になってしまったんだ」

「あの頃は、アメリカ派と日本派の対立が絶えなかったわね。一世と二世の違いだけじゃなくて、二世同士の溝も深かったわ」

「うん。日本派は帰米きべいが多かったね。黒龍会というグループが、骸骨の絵を書いたトラックを乗り回して、アメリカに媚びないように宣伝して回っていたのを覚えている」

「キベイって、何ですか?」

「日本で暮らしたことのある二世。当時は、いろいろな理由で子弟を日本に送る親がいたの。帰国するときのために子供を日本に適応させておきたいとか、小さな子供をおいて長時間働くのは難しいからとか、安い学費で高等教育を受けさせたいとか、日本の教育を受けさせたいとかね。アメリカに戻った二世は、日本の学校で叩き込まれた軍国主義に染まっていたり、英語を忘れていたりして、再適応に苦労したそうよ」

「高校の友人に帰米がいた。3歳のときに日本の親戚に預けられ、16歳でアメリカに帰った。彼は日本語訛りの拙い英語を話し、いつも教室の隅でおとなしくしているやつだった。日本では米国どんと言われて、アメリカに帰ったら白人からジャップと侮蔑されて、どちらにも居場所がないと嘆いていたよ」

 3人は車に戻りながら話を続けた。
「風が強いときは、大変だったでしょうね」
 辺りを見回した都は、強風で砂が巻上げられることを想像して身震いした。

「前が見えなくなってしまうほど、ひどい砂嵐が吹くときもあったよ。そんな日は、バラックに閉じこもっているしかなかった」

「砂嵐が起きないように、収容所の敷地内には水がまいてあったわね……」

「そんな環境で暮らせたなんて、本当に我慢強かったのですね」
 照りつける太陽に閉口した都は、1万人以上がここで何年も暮らしたことが信じられなかった。

「収容所の生活は惨めで退屈だったけれど、そこで生きていくしかなかったから、少しでも快適にしようと努力したよ」

「日系人は器用な人が多かったから、収容所の生活もどんどん改善されたわね。最初はトイレに仕切りがなくて、便器が並んでいるだけだったの。恥ずかしくて入れなくて、便秘になっちゃう女性もいた。トイレに仕切りとドアをつけたブロックがあったから、遠くてもそこに用をたしにいく人が多かったわ。バラックが隙間だらけで、砂やすきま風が吹き込んでくるから、缶詰のふたや木片で隙間を塞いだの。バラックの前に木を植えて、砂が吹き込むのを防いだりしたわ。余った木材をもらってきて、椅子や机、棚を作って暮らしやすくした。畑仕事の経験がある人たちは、砂漠に水を引いてきて、広大な畑を作ったわ。収穫された新鮮な野菜は食堂で使われて、食事が美味しくなったわ」

「僕のパパは、ガーデナー仲間と日本庭園を作ったよ。ママは、食堂で皿洗いの仕事をしていた。そうそう、英語を習いにもいっていたな。若くしてアメリカに来てから休まず働いてきた両親にとって、食事と部屋、医療が保障された収容所は初めての休息だったのかもしれない」

「収容所でも、私達は今までと同じように友達とおしゃべりをして、恋をして、ダンスやジャズ、スポーツを楽しんだ。今までと変わらない、そう言い聞かせないとやりきれなかったのよ。暫くして収容所内に、幼稚園や様々なレベルの学校ができて、勉強も再開できたわ」

 2人の話を聞いて都の胸に迫ったのは、理不尽な状況に追い込まれても、その環境で精一杯生きた日本人のしなやかな強さだった。外の世界から切り離され、囚人のような生活を強いられても、彼らの時間は止まらなかった。同胞の怨念を恐れた都が感じたのは、意外なことに生のエネルギーだった。その力強さは、あの日から止まっていた都の時間を内側から揺さぶりはじめた。