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「巡礼」6 

 都に思いがけない出会いが訪れたのは、大学入学から2ヶ月ほど過ぎた頃だった。都は同じ学部の親友から合コンに誘われた。参加した女性は、誘ってくれた智子さとこ、専門学校に通う彼女の従姉妹と都の3人。男性は都内の国立大学医学部に通う2年生が3人だった。

 懐メロが流れる居酒屋で、合コンというよりも和気藹々とした飲み会が開かれた。医学部の学生と聞いて、都は金遣いの荒い甘やかされたボンボンというイメージを持って参加した。だが、やってきたのは朴訥とした好青年で、軽薄さは微塵もなかった。
 男性の幹事は智子の高校時代の先輩だった。乾杯の後、智子とその先輩を中心に会話が進み、他のメンバーは聞き役にまわった。やがて酔いがまわって饒舌になると、それぞれ前に座った異性と話し始め、都はユウイチという男と話した。実家は広島の呉で、祖父の代から続く内科医院だという。彼は生まれ育った故郷の海の美しさ、海軍の伝統が脈打つ街のことを思わず情景が浮かぶような言葉で語ってくれた。互いに好感触を得たが、連絡先を交換せずに終わってしまった。

 それから1ヶ月ほど経った頃、都は都内のホールで開かれたクラシックコンサートで、合コンにいた男性の1人と再会した。演奏が終わると、興奮冷めやらぬ観客は、大ホールの出口にぞろぞろと進んでいた。都は出口に向かう列に右側から合流する群衆のなかに、どこぞやで見た色白の顔を見つけた。合コンにいた男だとわかったが、向かって斜めに座っていたのに言葉を交わさなかったので、名前が出てこなかった。彼を含んだ群衆は都のいる列に合流し、2人は一瞬、手を伸ばせば届く距離に近づいた。そのとき、男も都に気づいたようで、切れ長の目を驚いたように見開いた。そのまま2人は群衆に流されたが、大ホールの外に出たところで男が話しかけてきた。

「以前、お会いしましたよね?」

 男も都の名前が出てこないらしく、名前を口にするのを避けているようだった。

「ええ、上野の合コンで」

 都が答えると、男は安堵したように明るい笑みを見せた。都が思わずうつむいてしまうほどまぶしい笑顔だった。

「僕、松倉まつくらです。松倉りょうといいます」

「風岡都です」

 2人は会話が続かないまま階段を降り、出口に向かって流された。建物の外に出たところで、良が尋ねた。

「クラシック、好きなんですか?」

「はい、マーラーは特に」
 都は力を入れて答えた。今日聴いた交響曲第2番「復活」は都の一番のお気に入りで、これが聞ける演奏会をやっと探しあてたのだ。

 それを聞いた良は、頬を紅潮させて話し始めた。
「僕もマーラーが好きです。今日の復活は背筋がぞくぞくしましたね。どんなにへこんだときも、今日の演奏を思い出せば力が湧いてきそうです。ところで、僕は第五楽章が一番好きですが風岡さんは?」

「私も同じです。冒頭の金管と打楽器の迫力に引き込まれ、終盤の独唱と合唱を聞いていると、何度挫折しても再び花開くことができるんだと気分が高揚してきます。ドイツ語がわからなくても気持ちが高ぶるのは、素晴らしい音楽には言語や文化を越えて、訴えかける力があるからかなと思います」

 彼は深く頷いてから尋ねた。
「コンサートには、よく行くのですか?」

「いえ、クラシックは好きですがCDを聴くだけでした。これからは、たまにホールで聴きたいと思っています」

「僕は親がクラシック好きだったので、子供の頃から聴いていました。音響の良いホールで聴くと、CDでは聴こえなかった一つ一つの楽器の音まで聴こえてきて、聴きなれた曲を別の角度から楽しめるんです。改めてクラシックって精巧に作られていると思いました」
 
 都は良の一歩後ろを歩きながら、彼の全身に目を走らせた。色白で、きりりとした太い眉と切れ長の目が印象的な顔立ちだった。口元には優しい笑みが絶えず、満開の桜を背景に立っているのが似つかわしかった。空色のワイシャツに色褪せたベージュのチノパン、履き古した黒いスニーカー。友人が見れば、ダサいと一蹴する出で立ちだが、今風の服装が苦手な都には好感が持てた。彼といるのを心地よく感じ始めた都は、言葉が滑らかに出るようになった。

「医学関係の方に、クラシック好きは、たくさんいるのですか?」

「それほど多くありませんが、僕は好きです。クラシックって、何度も聞いていると、聴く者の心に訴え掛けるために、計算しつくされて作られているのがわかるんです。何十年も前に亡くなった偉大な才能と対話をしている気分です」

 彼はさらに言い継いだ。
「同じことは、文学作品を読んでいても感じます。時々、構成がしっかりしていて、リズムのある文章に、選び抜かれた言葉が埋め込まれている完成度の高い作品に出会います。夏目漱石の『草枕』とか永井荷風の『すみだ川』とか。そんな作品に出会うと、生きていてよかったって思うんです。すごい才能に出会えたこと、自分がその才能に気づけたことが嬉しいんです!」

 彼は力を入れて喋りすぎてしまったことに気づき、少し顔を赤くした。熱にうかされたようにまくしたてる彼を見れば、友人は「オタクっぽい」と気味悪がるだろう。だが、都は嫌だとは思わなかった。むしろ、文学を感性で捉えていた自分と、構造を分析しながら読む彼の違いを興味深く思っていた。

「風岡さん、読書は好きですか?」

「ええ、文芸部に入っているくらいですから。でも、私は日本文学のなかに、祖父母や曾祖母が使っていた昔の言葉が生きているのが面白くて読んできたようなものです。松倉さんのように、構成やリズムに注意を払って読んだことはないんです。でも、そんなふうに作家が精魂を注いだ作品だからこそ、私のような者でも惹かれたのかもしれません」

「確かに、近代日本文学には、失われつつある懐かしい世界が生きていますね。世代を重ねても、文学を通して古き良き日本が受け継がれていくのは、素晴らしいと思います。あまり本を読まない人でも、現代文の教科書で読んだ作品は覚えているので、そこから古き良き日本や、日本語の美しさを感じられると思います。そんな意味で、現代文の授業って大切だったと思います」

 国語教師を志望する都は、将来の自分の仕事を肯定してもらえたような高揚感を覚えた。
「わかります。私も教科書に載っていた『舞姫』を読んで、近代日本文学っていいなと思ったんです。いま、自分でもその素晴らしさを伝えたくて、国語教師を目指しています」

 良は思わぬ話の広がりに驚き、感慨深げに言った。
「それは素晴らしい。とても意義のある仕事です」

 何時いつになく饒舌になっていた都は、以前から感じていた疑問を彼にぶつけた。
「ところで、医学部出身で物書きになった人って多いですよね。有名な人だけでも、森鴎外、斎藤茂吉、北杜夫、安倍公房、加藤周一、加賀乙彦……。なんで、医師から文士になる人が多いのかと考えたことがあります。最初は、最難関の医学部には優れた頭脳を持った方が集まるので、他分野で才能を開花させる人がいても不思議ではないと思いました。でも、医学を志した方が文士に向かう共通した動機があるような気もします。高い知能に恵まれた方が人体について深く学び、日々様々な症例と向かい合う。できる限りの処置をして、患者さんの回復力に委ね、奇跡のような回復力に驚くこともある。患者さんやご家族に接し、普段は見られない剥き出しの人間関係を目の当たりにする。そんな特異な世界が、書きたいという衝動を引き起こすのかもしれないと思いました。松倉さんは、どう思いますか?」

 彼は目を伏せて少し考えた後、慎重に言葉を選びながら答えた。
「僕はまだ臨床の場に立ったことがないので、そこでどんな思いが湧くかは、わかりません……。でも、医者になった自分が、貴女が言ったような思いを抱くか楽しみです」

 都は良が自分の質問に真摯に答えてくれたことが嬉しかった。

 2人は喫茶店に入って話を続け、別れ際に電話番号を交換した。その日の晩、早速彼から電話があった。彼は都が日本舞踊を習っていたこと、歌舞伎舞踊が好きだと言ったのを覚えていて、都のお気に入りの坂東玉三郎が歌舞伎座で踊るので、よかったら見に行かないかと、しどろもどろになりながら尋ねた。都は彼があれから自分のために公演を調べてくれたと思うと胸が一杯になり、即座に同意した。