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吉田松陰先生や高杉晋作、坂本龍馬、河合蒼龍窟先生等、幕末維新の人達がこぞって愛読した王…

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吉田松陰先生や高杉晋作、坂本龍馬、河合蒼龍窟先生等、幕末維新の人達がこぞって愛読した王陽明先生の思想。いわゆる学説の解説ではなく、先生の心を伝えたいと思い、手紙や語録等を現代日本語に訳して紹介しています。彼等がどこに熱狂し、感激したのか探してみたいと思います。

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  • 王陽明先生からのメッセージ

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十八史略 ー帝舜ー  『南風の薫ずる、以て吾民の慍いかりを解くべし』

 改めて読んでみると、古代の神話的な帝王の堯と舜にも短い文章の中にもその性格、個性の違いを際立たせている。それは、そうした個人の描写というよりは、もう少し普遍的な人々を包含しているように観える。普遍的な人々とその抱える問題を内含しながら、昇華している。理想的な帝王とその世界から少しずつ現実的な世界へと開ていくのか、堕落していくのか。    『帝舜有虞氏』  帝舜有虞氏、姚(やう)姓。或は曰く、名は重華(ちょうくわ)、瞽叟(こそう)の子、顓頊(せんぎょく)六世の孫也。父、後妻

    • 王陽明先生の手紙5

      「諸用明(妻の弟) に宛てた手紙」 正徳六(1511)年辛未 40歳 王陽明先生は、40歳ですでに職を辞して学問に専心修業する強い気持ちを持っておられた。37歳の時の竜場大悟が余りにも有名だが、ご本人は、そこがゴールであるとは考えていなかったことが分かる。歴史的には、57歳で亡くなられるまで、官職を辞することは許されなかった。それどころか、晩年になるほど反乱鎮定のための将軍に任ぜられてむしろ、その職務、職域は激しさを増した。しかも、先生の学問求道の志は、衰えるどころか、よ

      • 王陽明先生の手紙4

        翰林院学士汪石潭内翰に答える 辛未 正徳六(1511)年 四十歳  厳しいご意見を頂きましたが、ここ数日ひどい腫れ物に悩まされ、手紙を書くことも叶わず、更なる教えを請うこともできずにおりました。 お手紙の中で「昨日論じた所はすなわちこれ大きな一つの疑問点である」また「この事は、影響が大きいと思われるので、敢えて言わない訳にはいかない」と。私の意見もまた全く同様です。この点を以ってしても、適当に、いい加減にしておく訳にはいかないのです。  喜怒哀楽は(感)情であり、これを「

        • 王陽明先生の手紙3

          『黄宗賢・応原忠に答える』 辛未 正徳六(1511)年 四十歳  昨晩は、大分話しすぎたようです。けれども、両君に会っては、多くを語らずにいられましょうか。その中でも、私の学問の未熟をもって、言葉の意味が必ずしも分明でないところがあったと思います。けれども、それは我々の間における一つの実際の工夫となすべきで、これについて釈然としないところがあっても、どうか、軽々しく捨て去ることなく、よくよく考え深めていただければ、軈て豁然として悟るところがあるものと思います。    聖人の

        十八史略 ー帝舜ー  『南風の薫ずる、以て吾民の慍いかりを解くべし』

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          3本

        記事

          十八史略 ー帝堯ー     『千歳せんざいにして世をいとはば、去りて上僊じょうせんし、彼の白雲に乗じて帝郷に至らん』

          『茆茨剪らず、土階三等』 『天下道あれば、物と皆昌さかえ、天下道なければ、徳を脩めて間に就く。 『千歳せんざいにして世をいとはば、去りて上僊し、かの白雲に乗じて帝郷に至らん』 中学生の頃、漢文の授業で十八史略の『鼓腹撃壌』のところを習った。とても印象に残っていて、恐らくは自分の漢文好きの原点はこの辺にある様な気がする。小中高大と行って、テキストの内容がそのまま頭に残っているなんて例は他にない。読み返したいと思っていたけれども、適当なテキストが無い。有朋堂文庫のものを一冊

          十八史略 ー帝堯ー     『千歳せんざいにして世をいとはば、去りて上僊じょうせんし、彼の白雲に乗じて帝郷に至らん』

          王陽明先生の手紙2

          王陽明先生の手紙2-1 徐 成之(じょせいし)に答える 鄭汝華(ていじょか)と旅先で出会い、君(徐成之)の最近の生活振りを仔細に聴くことが出来た。けれども、直接に会う機会を持てずにいるので、かえって悶々たる思いが増すばかりである。 吾が故郷にいる若者たちで学問に志す者は数えきれないほど多勢いる。けれども、その中で、『篤く信じ、学を好む』こと、君(徐成之)に勝る者がいるだろうか?『過ちを聞き、忠告善道を喜ぶ』こと君に勝る者がいるだろうか?『過ちて吾に告げることなく、学んで吾

          王陽明先生の手紙2

          閑話-安岡正篤先生『童心殘筆』より 『石の味』

          王陽明先生の学問思想を改めて勉強し始めると同時に、かつて読んだ安岡正篤先生の『石の話』が懐かしく思い起こされ、かつ、今の自分に切実な内容に思えて、探し始めた。ただ、どの書の中にあったかなかなか思い出せず、2〜3の講話集を当たったけれど見つからず、それでも、微かな記憶から『童心殘筆』ではなかったかと思い、この数日手探りに繙いていた。ふと、この朝、無心に読み始めた箇所がドンピシャだった。ここに、先師に合掌を捧げて転記させて頂く。 (余談ながら、この『童心殘筆』について。全く奇跡

          閑話-安岡正篤先生『童心殘筆』より 『石の味』

          王陽明先生と弟子との対話2-1

          私(徐愛)は、尋ねました。 「大学」の『明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り』の文の次に来る『在止於至善、知止而后有定(至善に止(とど)まるに在り、止(とど)まるを知りて而る后(のち)に定まる有り』の文において、朱子は「事事物物、皆定理有り」と解釈しました。先生の説とは相容れないように思われますが、いかがですか? 先生曰く「事事物物の上において至善を求めることは、却ってこれは『義外』というべきもので、正しいあり方ではない。『至善』とは、これは『心の本体』を表す言葉で

          王陽明先生と弟子との対話2-1

          王陽明先生と弟子との対話1-2

          『親民』という言葉は、「孟子」の中にある『親を親しみ、民を仁す』という言葉と意味するところは同じである。 『親しむ』ということは、『仁する』ということである。「書経」に『百姓(ひゃくせい)親しまず、舜(帝)、(臣下の)契(せつ)を司徒(大臣)として、敬(つつし)んで五教を敷いた』とあるのは、『親』の根拠である。また「書経堯典」の『克(よ)く峻徳を明らかにす』とあるのは、「大学」の『明徳を明らかにす』と同じことをいっているのである。「書経堯典」の『以て九族を親しむ』より『平章

          王陽明先生と弟子との対話1-2

          王陽明先生と弟子との対話  1-1(伝習録より)

          私(徐愛)は先生に尋ねました。 「大学」の『在親民(民に親しむに在り)』は、「『在新民』とすべきである」と朱子は述べました。後ろの方の章に『作新民(新民を作(おこ)す)』とあるのは、根拠として正しいように思います。ところが先生は、「旧本に従って『親民』とすべきである」とおっしゃいました。これにも根拠とするところがあるのでしょうか? 王陽明先生曰く、 『作新民(新民を作す)』の『新』は、『自ら新たにする民衆』の意味で、『在新民(民を新たにするに在り)』という場合の『新』と

          王陽明先生と弟子との対話  1-1(伝習録より)

          徐横山曰仁先生の『伝習録』の前書《続》

          世の人々は、先生に直接お会いすることはおろか、声すら聞いたことがないにも関わらず、はなからバカにした態度をとり、怒りの心を燃やして、噂話の類を元に憶測して決めつけようとしている。しかし、そんな態度で本当のことが分かるだろうか?また、先生に付き従う人々であっても、先生の教えを聞きながら、往々その一を得て二を忘れ、或いは細かいことに捉われているうちにその本当の大切なところを見失ってしまう。 このままでは王陽明先生の教えの真意が伝わらないことを憂いて、世の人々に先生の教えの真意を

          徐横山曰仁先生の『伝習録』の前書《続》

          徐横山曰仁先生の伝習録の前書(抄)

          「先生は、全てを見透す驚くべき智見を持ちながら、気さくで明るく、格式ばったところの全くないお方である。 けれとも世間の人々は、先生の若かりし時、豪邁不羈の性格で侠客の間に出入りされた噂や、或いは詩文の世界に没頭されたり、かつては仏道や神仙の道に耽溺されたりしたことをもって、先生の主張に異を唱えた。皆、先生の主張をよく聞きもせず、訳もわからずただ、異を立て、奇を好むものとした。これは、先生が未踏の異域に砭謫(へんたく)3年に及び、困難の極みにも静かに徳を養い精神を練り、古学儒道

          徐横山曰仁先生の伝習録の前書(抄)

          王陽明先生故居

          王陽明先生故居

          王陽明先生講学処

          王陽明先生講学処

          王陽明先生故居 瑞雲楼

          王陽明先生故居 瑞雲楼

          王陽明先生の手紙 1

          一、辰(しん)中の諸生に与える   (明武宗正徳四年−1509年、38歳) 龍場に謫居させられていた二年ほどの間は、共に道を語ることの出来る友もなく過ごしていたが、赦されて都に帰る途中、早くも君ら諸友と会うことが出来た。何という幸せなことだろうか。まさに喜びに溢れていたところだったが、急にまた離れることになり、とても残念な気持ちでいっぱいです。 聖人の学問が途絶えて久しく、本当に道を求める者は少なく、周りからの非難や批判によって、容易に志を失い易い。『孟子』に云う「豪傑の士」

          王陽明先生の手紙 1