王陽明先生と弟子との対話2-1

私(徐愛)は、尋ねました。

「大学」の『明徳を明らかにするに在り、民に親しむに在り』の文の次に来る『在止於至善、知止而后有定(至善に止(とど)まるに在り、止(とど)まるを知りて而る后(のち)に定まる有り』の文において、朱子は「事事物物、皆定理有り」と解釈しました。先生の説とは相容れないように思われますが、いかがですか?

先生曰く「事事物物の上において至善を求めることは、却ってこれは『義外』というべきもので、正しいあり方ではない。『至善』とは、これは『心の本体』を表す言葉で、むしろ自らの心の内側にありて求めるべきものなのである。『明徳を明らかにし』、『至精至一』の処に到れば(精妙なる自らの明徳というものを自覚して、それを常に失わずいついかなる時、どんな場面に於いても失うことがないようになれば)、よろしいのである。そうかといって、決して現実の物事からかけ離れた状態を言うのではない。朱子の注釈に示されているように「天理の極致を尽くして、人欲の私を滅し尽くし」たというのは、これは真理を得ている言葉と言うべきである。

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